1.神さまは人格を持つ方
私たちが信じる神さまは人格的な神さまです。神さまはアダムには
「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2:17)。
と警告をしました。アブラハムに対しては、
「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」(創世記12:1)
と命令と約束を語っています。このように神は語りかけ、約束し、警告を与えます。
創世記6章には、
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(創世記6:5)
とあります。神さまは、その心を痛めることもあるのです。
神さまは人格を持ったお方であることを私たちは心に刻む必要があります。神さまに似せて造られた人間もまた人格を持ちます。人間は人格を持った他者と関わりながら生きていきますが、神さまとも関わりをもって生きるように神さまに造られました。神さまが人格を持った方であることは当たり前すぎて、かえって私たちはこのことに心を留めなくなります。
2.神さまが人格を持つ方であると考えないと
神さまが人格を持つ方であることを考えないと、信仰は神の教え・戒めを守ること、とする戒律宗教になってしまう恐れがあります。神さまはどんな思いを込めて戒めを与えたのか、神さまのみ心を考えないと、ただ守ることが優先され、その戒めの意味を考えなくなります。その戒めを守りたくないときは、「無理だ、むずかしい」と言い訳や弁明をするようになります。
イエスが対決した律法学者たちは、イエスから偽善者と批判されましたが、それは神さまのみ心を考えないで、戒めを守ることだけを考えていたからです。
神さまが人格を持つ方であることを考えないと、神さまを敬い畏(おそ)れることがなくなり、神さまの裁き、罰を恐れるようになります。さらに、神さまは人間の願いをかなえてくれればよい存在になってしまいます。
3.神さまを人格的な神とするとは、神さまの心に関心を持つこと
戒めであれば、神さまはなぜ、戒めを与えられたのか、約束であれば、神さまはなぜ、約束を与えられたのか。神さまの心に思いを向けることが大事です。夫婦の交わりでも、親子の交わりでも、お互いの心を大切にすることがなければ、その交わりはうまく行きません。相手の心を大切にするとは、相手の存在を尊ぶことです。相手の存在を喜ぶことです。これを一言で言うと、「愛する」になります。