5.「既に」と「未(いま)だ」の間を生きる

複眼的思考の必要

私たちは二つの目でものを見ています。片目では距離感がつかめません。両目で見ることによって距離感がつかめます。物事を見るときも、複眼的思考が必要だと言われます。色々な角度から物事を見て考え、判断することが大切だということです。一つの角度からしか見ないと偏った見方になりかねません。

信仰の世界も複眼的思考が必要です。たとえば主イエスは、

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)

と宣べ伝え、宣教活動を開始されました。あるいはファリサイ派の人々が主イエスに「神の国はいつ来るのか」と尋ねた時、イエスは次のように答えました。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20~21)。

 神の国は近づいたと主イエスは語り、神の国はあなたがたの間にあるのだ、とも語られました。神の国は「既に」来ていると主イエスはおっしゃったように思えます。私たちの今の現実はどうでしょうか。神の国はどうなったのでしょうか。どこかへ行ってしまったのでしょうか。神の国は終末と共に到来するのであって、私たちはそれを待ち望んでいるということなのでしょうか。「未だ」神の国は到来していないということなのでしょうか。

神の国は神の御支配を意味します。主イエスの到来と共に神の国、神の御支配は現れたのです。「既に」神の国は現れたのです。私たち主イエスを信じる者は、神のご支配の中に生きているのです。そう信じます。だから、「神さまが共におられる」とは、私たちが神さまのご支配の下にいることを意味します。私たちが神さまのご支配のもとにあることを信じることは、私たちの勇気にもなり、励ましにもなります。

しかし神さまのご支配は、誰の目にも明らかな形で現れてはいません。この世の現実を見て「神などいるものか」と語る人がおり、「神の御支配なんて信じられない」と語る信仰者だっているかもしれません。神の国は「未だ」来ていないように見えます。未だ来ていない、これも真実です。終末の到来と共に神の国が実現し、誰の目にも明らかな形で神の御支配がハッキリと現れます。

私たちは「既に」と「未だ」の間を生きています。「既に」神のご支配が到来し、そのご支配の中に私たちは生きています。同時に、誰の目にも明らかな神の国、神の御支配は「未だ」到来しておらず、私たちは神の国の出現を待ち望み、この世の歩みをしています。「既に」と「未だ」の両方を考えることが信仰生活には必要です。信仰の世界に生きるためには複眼的思考が必要です。