はじめに 日々の糧としての聖書

日々の糧としての聖書

レストランで食べるごちそう。それは修行を積み、圧倒的な技術を持つ料理人がつくったごちそう。おいしさに満足で心はいっぱい。毎日家で食べる食事。それは平凡なありふれた食事。ごちそうとは呼べません。毎日食べ慣れた食事ですが、これで栄養を取り、私たちは生きています。レストランで食べるようなごちそうは、たまに食べるのでごちそうです。もし毎日食べたら、飽きるかもしれません。毎日の平凡な食事が恋しくなります。

デボーションは、毎日の平凡な食事にたとえることができます。その日に読む聖書の箇所から、自分が読み取れることを読み取り、それを自分の糧(かて)とします。そこから教えられ、神さまの導きをいただきます。それは、その日に読んだ聖書をその深みから読み取り、それを人に話せば、そこまで読み取れるなんてすごいねえ、聖書の内容って素晴らしいねえ、と人を感心させるような読み取りではないかも知れません。そのような読み取りはごちそうに相当します。そのようなごちそうは礼拝説教や信仰の書物から受け取ればよいのです。デボーションは、聖書研究ではありません。

私たちに必要なものは、日ごとの糧です。日々聖書を読み、そこから栄養をいただき糧とすればよいのです。自分が読み取れる範囲内で聖書から教えられればいいのです。このような歩みを積み重ねる中で、礼拝の説教を聞く中で、教会で聖書の学びをすることを通して、私たちは少しずつ聖書を深く読み、味わうことができるようになります。聖書を読むことが楽しくなり、喜びとなっていきます。