第3回 神がいかなる方かを知ることの重要性

神さまがいかなる方かを聖書を通して学び続けることはとても大事です。なぜなら、これをおろそかにすると私たちは「おのが腹を神とする」罪に陥ってしまいます。というか、私たちは「おのが腹を神とする」(フィリピの信徒への手紙3章19節)罪から解放される必要があります。自分の腹を神とするとは、神は自分の願いをかなえてくれるもの、と考えることです。

「自分の祈りがなかなかかなえられないと、神って本当にいるのだろうか、と疑ってしまう」と語る信仰者がいます。私たちは異教社会に住んでいます。神社、仏閣に行くと、そこで手を合わせて祈る人が沢山います。この人々は、自分の願いがかなうように祈っています。祈りとは、神仏に自分の願いをかなえていただくものという考えが、私たちの意識にこびりついています。たしかにクリスチャンは他者のために執り成しをしたり、伝道のために祈ったり、と神さまのための祈りをします。しかし自分にとって大切な願いがかなえられないと神を疑ったり、神はいないなどと思ったり、祈る事に消極的になります。失望するなら祈らない方がよい、と考えるのです。

私たちは、「神とは自分の願いをかなえてくれるものである」と考える社会の中に生まれ育ちました。このような考えが私たちを支配しています。このような考えが、自分の願い通りにならないと神を疑ったり、神はいないなどと思わせるのです。私たちがクリスチャンになったとき、この意識がこびりついています。私たちの心の中には、内なる偶像があります。私たちの願いをかなえてくれる神という偶像です。

この偶像礼拝から脱却するためには、私たちの内なる出エジプトが必要となります。この偶像の力は強いです。長い信仰生活を送っている方の心の中にもこの偶像が巣くっています。この支配からの解放、私たちの内なる出エジプトが必要となります。私たちを解放してくれるもの、それは神さまであり、神さまの言葉、聖書です。聖書に親しみ、聖書が、神はいかなる方かと告げているかを学び続けることが大事です。そうしているうちに、内なる偶像が砕かれていきます。