2019年10月24日
(内容)
- イエスとユダヤ人との議論はイエスが悪霊につかれていると言われるまでに至った。結局ユダヤ人たちはイエスを受け入れなかった。
(黙想)
- この段落においてイエスは言われた。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」。これは人間の常識に反する。それでユダヤ人たちはイエスに対し「あなたは悪霊につかれている」と語った。イエスとユダヤ人の議論は平行線である。人間の常識を越えることを信じさせることは難しい。福音は常識を越えることを告げる。十字架で処刑された人が救い主というのも常識を越えるメッセージである。
- 私たちとしては、イエスが語ったことを信じ受け入れることが大切となる。この段落では、イエスの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない、との言葉を受け入れることである。これは人が肉体的に死なないことを語るものではない。肉体的には人はだれもが死ぬ。しかしイエスは死を超える人間の運命について語っている。
- 6章では、イエスは「私は命のパンである」と言い、「これを食べる者は死なない」と語っている。11章でもラザロの死に関連して「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われた。イエスはご自分が永遠の命を与える方であることを繰り返し語る。
- 56節の「アブラハム、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て、喜んだのである」は、私たちに戸惑いを与えることは確かである。旧約聖書には、このようなことは語られていない。イエスの言葉を文字通りに、受け取ることはできない。文字通りに受け取ったとしてもあまり意味はない。
- イエスの言葉は、ユダヤ人たちを突き放すような言葉であり、なぜこのような言い方をされるのか、僕には理解できない。それはそれとしてイエスの真意はどこにあるのだろうか。
- 比喩的に解釈する必要がある。イエスは信仰の父とされるアブラハムを引き合いに出し、ご自分が救い主としておいでになったことを語っているのではないか。ユダヤ人たちはアブラハムを敬っている。
- ユダヤ人たちは「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と語った。彼らの目に、イエスは偉そうに好き勝手なことを言う思い上がった人間に見えたのであろう。
- イエスが語ることを真理として受け入れることが信仰であることを改めて教えられる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)イエスの言葉を守る者は決して死ぬことがない。イエス様を信じる者は永遠の命を与えられていることを教えている。
☆神が私たちに求める生き方
- (約束)イエスの言葉を守るなら、決して死ぬことがない。これを信じる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、私はイエス様との交わりに生きることを願う者です。それゆえ、イエス様のお言葉を受け入れたいと願う者です。
- 今日の聖書では、イエス様の言葉を守る者は決して死なないと教えられました。6章にも、イエスを信じる者は決して死なないとあり、11章でも、決して死なないとありました。イエス様は私たちに永遠の命を与える方であることを信じるように教えられます。
- イエス様は私たちの生が、肉体の死をもって終わらないことを教えてくださいます。このことを聖書の教えとして受け入れるとともに、それに加えて、イエス様が教えておられることを、イエス様が直接私に語りかけてくださるものとして聞き、受け入れることができるように導いてください。
- 先日、説教奉仕に出かけた教会があります。講壇のわきに祈祷室があり、そこには聖句が掲げてありました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。狭い密室の祈祷室でこれを読むとき、イエス様の語りかけとして聞くような心地になります。
- 今心を静めて、イエス様が私に語りかける言葉として聞きます。主よ、お語りください。しもべは聞きます。「わたしの言葉を守る者は決して死ぬことがない」と。
☆与えられた導き
- 「わたしの言葉を守る者は決して死ぬことがない」との言葉を主の語る言葉として心で聞く。