2025年6月5日
(内容)
- イエスは自分を追いかけてきた群衆を深く憐れみ、病人を癒やし、また群衆の空腹を満たした。
(黙想)
- 五千人への給食物語である。イエスに注目する。イエスはイエスの後を追いかけてきた群衆を見て、深く憐れんだとある。群衆の中の病人をいやされた。この段落では、イエスは群衆に教えたとは書かれていない。
- マタイ9章35節以下にこうある。
マタイ 9:35~38
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
- 14章でもイエスは群衆を深く憐れんでいる。飼い主のいない羊のように弱り果てている姿を見ているのであろう。具体的に病気で苦しんでいる人たちを癒やし、その苦しみから救っている。そしてお腹を空かせている群衆にパンを与え、お腹を満たした。
- 群衆は、自分の仕事を休み、食事のことなど考えないでイエスの後を追ってイエスのもとに行く。これは必死な行動なのである。人里離れた場所に行き、日が暮れるからと言って、帰宅するわけではない。もし日が暮れるから解散させたら、群衆はお腹を空かせながら暗闇の中を帰宅するのかも知れない。群衆がお腹を満たした後、群衆を解散させている。
- イエスは憐れみ深い方である。群衆は求めていた癒やしを与えられ、喜んで家に帰ったことだろう。でも人間の救いは、まことの飼い主に出会うことである。
- イエスは癒やしと五千人の男たちにパンを与える奇跡を行い、メシアとしてのしるしを現した。弟子たちはイエスの働きを間近に見ている。奇跡を行うイエスの力に驚いているはずである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>憐れみ深い方である。
- <御子>群衆の中の病人を癒やし、また空腹を満たしている。それは憐れみの現れであり、メシアのしるしの行為である。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>イエスの憐れみを求めること。自分の問題点に対する解決をイエスに求める。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- 今日は主イエスが群衆を憐れまれてことに思いが向きました。
- 9章でも主イエスは群衆を憐れに思っています。主の目に群衆は飼い主のいない羊なのです。飼い主のいない羊は迷うのみです。
- 私もあらためて自らを顧みます。あなたを信じていながら、飼い主のいない羊のように迷いの中にあったのではないかと思わされました。自分では色んなことを考えているつもりでも、それは飼い主のいない羊のように考えていたのではないかと思わされました。飼い主がいない羊は自分の力で生きようとしますが、限界があります。結局は迷います。自分は飼い主のいない羊であると認めます。あなたこそ、私の飼い主です。主イエスこそ私の飼い主です。
- あらためて、あなたこそ、わたしの主、天の父なる神です。詩編を読み、あなたなしには生きられない詩人の言葉に耳を傾けたいと思います。できたら詩編を通読したいと思います。まずは1~10編まで通読したいと思います。あなたへの信頼を学ぶことができるように導いてください。
☆与えられた導き
- 詩編を読む
~~~ 心に残った言葉
詩篇2篇
いかに幸いなことか
主を避け所とする人は全て
詩篇8篇
あなたが御心に留めてくださるとは
人間は何者なのでしょう