マタイ福音書13章34~35節 たとえを語る理由

2025年4月14日

(内容)

  • イエスがたとえを用いて語る理由をマタイは示す。引用されてる聖句は詩編78編2節である。

(黙想)

詩編 78:2~3
わたしは口を開いて箴言を/いにしえからの言い伝えを告げよう
わたしたちが聞いて悟ったこと/先祖がわたしたちに語り伝えたことを。

  • 詩編は出エジプトに始まる神のみ業を伝える。イスラエルの民にとって信仰の原点となる出来事である。神のみ業を語り伝え、信仰の原点へ人々を導こうとする。信仰を継承するには、イスラエルを救った神のみ業を語り継ぎ、受け継いでいくことが大切であると知る。
  • 詩編を引用しているが、その言葉はマタイが書いたものである。「天地創造の時から隠されていたことを告げる」。隠されていたこととは何か。イエスはそれをたとえで語ったという。それはひと言で言えば、まことの神がおられるということか。イエスは天の国のたとえを語り、神の御心を示してきた。
  • 神はイエスを世に送り、人々を救いへと招いた。神は歴史を通して人間を救おうとしている。イスラエルを神の民として選んだのもそのためである。彼らは神の民として生きることに失敗した。それにより、人間の罪が明確にされ、イエスは、罪から人間を救うメシアである。
  • イエスはたとえで人々を信仰に招く。それは預言者が語っていることの実現であるとマタイは書く。確かにたとえなら、これは何だろうと関心を誘う効果はある。あからさまに罪を語っても人々は聞く耳を持たないだろう。たとえでえ語る、それは一つの知恵なのかも知れない。説教でもたとえを用いることは効果があるかも知れない。
  • 素直にイエスの言葉に聞き、実を結ぶ者でありたいと思う。
  • 詩編78編を読むと、神のみ業を見ても神に信頼しないイスラエルの民の姿を見る。結局、信仰とは自分の生き方を変えることであり、神を崇め、神に従うことなので、人は、簡単には信仰に入ることができない。自分の思い、自分の考えを第一にして生きるのが人間だから。
  • キリスト信仰は、天地の創造主を信じる信仰であり、この神は歴史の中で神を信じる民を呼び出し、多くの人を信仰へと招く神である。今は、教会を通して人々を招く神である。まことの神がおられ、この神との交わり、関わりに生きる、それが人間本来のあり方であることを聖書は告げる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>たとえを用いて語る方
  • <御子>天地創造の時から隠されていたことを語る方
☆神が私たちに求める生き方

<勧め>隠されていたことを知ること

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日もディボーションをすることができ感謝です。
  • あらためて、人生において本当に確かなことって何かと思わされます。人は自分が生きる意味、目的を知らずに生きています。自分なりに幸せを求めて生きていますが、自分が存在する理由、存在する目的を知りませんし、また死んでどうなるのかも分かりません。不確かさの中に生きています。それぞれ懸命に生きています。
  • 天の父なる神さま、私は信仰を得て、自分が神に愛されて存在を与えられたこと、神との交わりの中に生きることが人本来のあり方、生き方であることを教えられ、信仰に生きる幸いを得ています。感謝です。そして今、私は老い、人生の終わりに向かっています。
  • 主イエスは天の国のたとえを語られました。私たちの最終的な目的地は、神の国であることをお知られます。神の国という目的地を目指していることをはっきり覚えたいと思います。そのことは天地創造以来、隠されていたことと考えることができると思います。この希望にかたく立つことができるように導いてください。信仰とは望んでいる事柄を確信することであるとの言葉に基づき、確信することにします。
  • 今日は讃美歌を歌います。讃美歌260番。

 「世にあるうちも、世を去るときも、
  知らぬよみにもさばきの日にも
  ちとせの岩よ、わが身をかこめ」

  • これが我々の衷心の祈りと歌でなければならないと、今日読んだ本に書いてあった。
☆与えられた導き
  • 讃美歌260番で賛美する。

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