ルカ福音書9章46~48節 誰が一番偉いのか

2025年7月18日

(内容)

  • 弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いかを議論していた。イエスは最も小さい者こそ、最も偉い者であると教えられた。

(黙想)

  • 弟子たちの中で、誰が一番偉いのか議論が起きた。一番弟子という言葉があるように、弟子の中で誰が一番偉いのかという議論が起きても不思議ではない。それは、自分は偉い者だという誇り、プライドに結びつきやすい。このようなプライドを人々は持ちたがる。人は自分を誇りたいと思う。
  • イエスは弟子たちの心の内を見抜いたとある。弟子たちの中に自分を誇る人間的な誇りがあることを見抜いたのである。そこでイエスは弟子たちに教える。
  • 何をもって「偉い」とするのか、その意味をイエスは逆転する。弟子たちが考える「偉い」は、他の人たちから「偉い」人だと認められる人のことである。他者からの評価が大切とされている。
  • しかしイエスが語る最も偉い人は、「最も小さい人」である。通常は人から相手にされない人である。人から見向きもされない人である。無視されて当然と思われる人である。人から相手にされない人である。しかし「イエスの名のため」に、人がその最も小さな人を受け入れるなら、その人はイエスを受け入れ、またイエスを遣わした神を受け入れる人だという。イエスを信じる人は「イエスの名のために」、最も小さな人を受け入れる。
  • 弟子たちの中で最も小さい人が、最も偉い人であるとイエスは言う。自分を偉く見せず、自分を取るに足りないものだとへりくだる人が、イエスから見ると最も「偉い」人なのである。自分を小さくしようとする。このような人が偉い人だとイエスは教えているように思える。

ルカ 9:23
それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

  • 自分を捨てる人、その人は自分を小さくする人であり、イエスから見ると最も偉い人になるのではないか。人は自分を捨てることはしないし、できない。自分の存在を目立たそうとするのが人間であり、目立つ人間になると偉くなったと人は思う。
  • 最も小さな人、それは自分を捨てる人と言ってよいのではないか。あるいは徹底して神に仕える人である。神に仕えるゆえに、自分を誇ることは考えない。イエス自身、十字架で殺され、人々から嘲られた。しかしイエスはメシアなのである。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>自分を小さくする。
  • <警告>自分を誇ることをしない。
  • <教え>自分を小さくすることこそ、イエスの弟子にふさわしい。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。今日は、最も小さな人について学びました。人は自分を誇りたく思う者です。自分を誇る、それは自分が偉くなったと考えることです。人からも評価されることを求めることです。でもイエスが考える人は、全く逆です。自分を小さくし、自分には誇ることなど何もないと考える人。自分を捨て、ひたすら神に仕える人。真に謙遜な人、それがイエスの目に偉い人であると教えられました。
  • でも人間には、自分を認めて欲しいと願う心があり、人から認められてこそ、自分はこれでいいと考える傾向があります。このような傾向はゼロにはできませんが、神に仕えることだけを喜ぶ者でありたいと考えます。自分を捨て、自分の十字架を負って主イエスに従う者でありたいと願います。
  • 老いた人間として、人の評価を求める心は少なくなりました。でも自分を小さくするとは、神を大きくすることであり、神であるあなたを崇め、あなたの栄光のために生きることは大切です。老いの中にあってなをあなたに栄光を帰するような歩みをしたいです。
  • 自分の祈りの中に、神の栄光を現すことができるようにという言葉が少ないことを思います。このような祈りが自然にできるようになりたいです。導いてください。
☆与えらた導き
  • 「神の栄光を現す」者となりますとの祈りができるように導きを求める。

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