2025年10月9日
(内容)
- 今の時代はよこしまな時代とイエスは言う。それはしるしを求めるからである。ヨナのしるし以外には与えられないとイエスは答えた。
(黙想)
- しるしを求める時代はよこしまな時代だという。「よこしま」とは、心が正しくないことを意味する。
- 自分が信じるために、信じる根拠を見せてほしいと願うこと、それがしるしを求めることである。イエスにとって、しるしを求めず素直に信じるのが正しい心なのである。ニネベの人たちは、ヨナが説教したとき、それを聞いて悔い改めた。南の国の女王は、ソロモンの知恵を聞くために、わざわざ地の果てから来たとある。
- 人々はイエスの行う奇跡やイエスの語るのを聞いている。それでなおイエスを信じるためにしるしを見せてと願うのはよこしまだとイエスは言う。
- 見たり聞いたりしたものを鵜呑みにして信じることは危険である。それを信じてよいか否か、吟味が必要である。吟味したうえで、信じるか否か決断する。イエスの教え、イエスのわざは、おかしなものではない。イエスの教えには権威があったし、イエスのわざは、悪霊で苦しんでいる人を助けるわざであり。イエスを信じるのに十分な理由がある。
- 人々がしるしを求める気持ちは理解できる。信仰とは、信じて身をゆだねるのだから、信じて大丈夫だという安心感が欲しくなるのは理解できる。
- しかし自分が信じられると思うものは信じるが、そうでないものは信じないとなると、自分が基準となる。神信仰において、自分を基準とすることは危うい。信仰においては、神が基準である。
- イエスはソロモンやヨナよりまさるものだから、イエスを信じるべきであり、しるしを求めるのは高慢となる。信じなければ、終わりの日に裁かれる。
- 聖書が語る終末の事柄を信じるのは簡単ではない。現代人からすれば、常識を遙かに超えることである。絵空事に思える。終末の事柄が今の自分にどのように関係しているのかを見極めることが大切となる。自分と関係ないなら、信じるか否かはどうでもよいことになる。
- 自分の今の生き方、信仰者としての歩みが、最後の審判で問われると聖書は告げる。これを無視していいのか。受け止めるべきなのか。受け止めるところから信仰が生まれる。
- 聖書は真理を語っていると考えるか否か。イエスは神を信じて生きることは真理であると告げる。イエスは神が生きて働かれる方であることを奇跡を行って証しした。人は自分のさまざまな欲があり、聖書が語る真理を受け入れるとは限らない。だからある人はしるしを求める。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>しるしを求めることはよこしまなことと教える。
☆神が求める信仰者の行き方
- <勧め>見たこと、聞いたことが真理であるかどうかを吟味し、真理と受け止められるなら信じること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。
- よこしまな時代はしるしを求めるとイエスは教えました。聖書が告げることを素直に信じることができればよいですが、私たちは時にしるしを求めます。その心理はわかります。私もしるしを求めたことがあります。
- 今回のディボーションでわかりました。語られるメッセージに真理を感じるか否か、その吟味は必要であること、そして真理なら信じた方がよいこと。
- 昨今、色々な詐欺が問題とされています。人々は自分が聞いたことを信じて、だまされています。聞いたことは鵜呑みにせず、吟味することが大切と知ります。
- 聖書は終末を語ります。終末の事柄は、現代人には絵空事に見えます。最後の審判は特にそうです。しかし聖書が罪からの救いを語ります。それは最後の審判での救いにつながります。最後の審判があると考え、それに備える生き方をするのが大切と思います。終末の事柄を確信を持って信じることができなくても引け目を感じる必要はないと思います。最後の審判があると考えて、そのように生きればよいと思いました。確信が持てるようになれば幸いですが、大事なのは自分の生き方、行動です。最後の審判があると考え、行動すればよいと思います。
- イエスの再臨も、それがあると考えて自分の生き方をそれに合わせればよいと思います。それもまた畏れを持って神を信じることになると思います。
- 今日はこのことをブログに書いてみたいと思います。今日の導きを感謝します。
☆与えられた導き
- 終末の事柄の受け止め方についてブログに書く。
