ルカ福音書 9章49~50節 不十分な弟子たち

2025年7月24日

(内容)

  • イエスの名を使って悪霊を追い出している人がいた。弟子たちは彼を非難した。イエスの直弟子だけが、イエスの働きを担うのではない。弟子たちに逆らわない者は味方である。

(黙想)

  • この箇所は、ガリラヤ伝道の最後の場面である。
  • イエスの名を使って悪霊を追い出している人がいた。イエスの名によって悪霊を追い出しているので、弟子たちは、共にイエスに従おうと誘った。しかし拒まれた。そこで弟子たちは、イエスの名を使って悪霊を追い出すのをやめさせようとした。その結果どうなったのかは分からない。つまりやめたのかどうかは分からない。
  • このことを弟子のヨハネはイエスに報告した。するとイエスは、やめさせてはいけないと言われた。弟子たちに逆らわない者は、味方なのであると教えた。どういうことなのか。
  • イエスの名によって悪霊を追い出していた人はどんな人なのか。37~43節において、イエスの弟子たちは悪霊に取り憑かれた子供から、悪霊を追い出すことができなかったことが書かれている。弟子たちは、イエスの名によって悪霊を追い出している人を見た。この人は遊びや悪ふざけで、イエスの名によって悪霊を追い出しているとは思えない。遊びは悪ふざけで悪霊を追い出すことはできない。それができているのは、何らかの形でイエスを信じているからだろう。イエスを信じているのは、イエスの12弟子だけではない。
  • この人はイエスの弟子たちと一緒にイエスに従おうとはしなかった。でもイエスに従う思いがあり、悪霊に憑かれている人から悪霊を追い出し、イエスの働きに参加していると言うことができる。
  • 前の段落で、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いのかという議論をしていた。それは的外れな議論であった。イエスは弟子たちをたしなめた。この段落でもイエスの弟子たちは、自分たちだけがイエスの弟子であると思っている。自分たちと一緒にイエスに従わないからと言って、悪霊を追い出している人を弟子たちは非難するのは傲慢である。イエスは、弟子たちに逆らわないなら、味方であるとたしなめた。
  • 次の段落で、弟子たちはイエスを受け入れない村に対して、「天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」とイエスに語り、イエスにたしなめられている。
  • 弟子たちの未熟な姿を見る思いがする。そしてイエスは彼らを戒めておられる。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>弟子たちがイエスの弟子として未熟なのは仕方がない。彼らは、罪の贖いを受けていないし、洗礼を受け、新しい人に生まれ変わったわけではない。
  • <警告>私たちはイエスの死と復活を知り、洗礼を受け聖霊の導きを受ける者となった。自分たちだけがイエスの働きを担っていると思い上がってはいけない。イエスの働きを担う人は他にもいる。自分たちと一緒にならないからと言って非難してはいけない。味方なのである。現在のキリスト教には、多くの教派がある。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
  • 今日の短い箇所を読み、前後の箇所を合わせて読みました。前の箇所では、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いのかと議論し、この次の段落では、イエスを歓迎しない村に、天から火を下して滅ぼしませんかとイエスに提案するなど、弟子からぬ態度が見られます。
  • でも弟子たちはまだイエスの十字架を知りません。そんな彼らに成長した弟子像を期待するのは無理ですね。私たちだって聖書からイエス・キリストの死と復活を教えられ、またイエスの弟子の生き方について学ぶことができています。だからといってイエスの弟子らしく十分に歩めているかと言ったら、どうなのでしょうか。
  • 少しでもイエスの弟子にふさわしい者として歩ませてください。今、イエスの教えられた主の祈りについて学んでいます。イエスは祈りを通してあなたとの深い交わりを持っていました。私も祈りを通して神との交わりを深めたいと願っています。父なる神、どうぞ私を導いてください。
☆与えられた導き
  • 主の祈りについて学び、神との交わりを深めるように努力する。

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