ローマ 10章11~13節 主を呼び求める

2025年7月29日

(内容)

  • すべての人に同じ主がおられ、呼び求める者に恵みを与える。

(黙想)

  • パウロは10章1~4節で、ユダヤ人がなぜ、イエスを受け入れることができなかったのかを説明する。彼らは神の義を知らず、自分の義を求めようとした。つまり自分が神の律法を守り、神の前に正しい者であることを認めてもらおうとした。しかし神は、御自分を信じる者を義とする方である。神はイエスをメシアとして遣わし、罪の贖いの死を遂げさせた。このイエスこそメシアであると信じる者を神は義とする。
  • 5節で、自分の義を求めるユダヤ人は律法を行うことによって自分の義を求める歩みをしたことを繰り返す。
  • 6~7節において申命記30章12節は、律法を求めて遠くに行く必要はない。律法は身近にあり、律法を守ることができると語る。ユダヤ人には身近に律法があり、彼らは律法を守り、義を得ようとした。
  • パウロは同じ申命記の言葉を引用しながら、信仰によって義とされるのは、信じれば良いと語る。何を信じるのか、それが自分たちに宣べ伝えられている福音を信じれば良い。福音は身近にある。
  • 信仰による義とは、イエスを信じる者を神は義とすることである。9~10節で、口でイエスは主であると公に告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたがたは救われる。言い換えると義とされる。10節では、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われると繰り返している。
  • 11~13節は信仰によって義とされることについての説明と言える。
  • 11節。「主を信じる者は、誰も失望することがない」。主を信じるとは、言い換えると主の言葉、主の行動、主の御業を信じるということである。信じる人は誰も失望することはない、言い換えると「信じてよい」ということになる。「信じる」ことが勧められる。信仰によって義とされることを信じてよいのである。
  • 12節。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、同じ主がおられる。ユダヤ人は、区別がないということに反発するだろう。彼らは神の民であり、律法が与えられている。ギリシャ人は律法を知らず、罪を犯して生きている。区別はあるとユダヤ人は理解する。しかし律法を持っているか否かではなく、イエスを信じるかどうかであり、これについては、ユダヤ人、ギリシャ人の区別はないとパウロは言う。イエスを信じる人、イエスを呼び求める人はだれでも救われる、これがパウロの主張である。
  • そして救いは恵みである。人は救いを受け取る資格はないが、信じることによって与えられるから救いは恵みである。
  • イエスは、すべての人の主であり、すべての人の呼び求める声を聞かれる方である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>すべての人の主である。すべての人の呼び求める声を聞かれる方である。
  • <御子>御子の贖いの業、死と復活を信じる人は皆救われる。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>主を信じること。主を呼び求めること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。私たちは信仰によって救われます。何を信じるかが大切です。今日は「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」との言葉が心に残ります。
  • 私は今、祈りについて学んでいます。自分のこれまでの祈りが、御心にかなう祈りだったのか、吟味しています。本当のことを言えば、聖書が教える祈りとは何か、私は分かっていません。そのことが学ぶ中でよく分かります。
  • 天の父よ、私の求めを聞いてください。私の求めに耳を傾けてください。私に正しく祈ることを教えてください。祈りについての学びを通して、是非、教えてください。父よ、あなたを呼び求めます。教えてください。
  • イエス・キリストの御名により祈ります。
☆祈り
  • 正しく祈ることを、学びを通して知ることができるように祈る。祈りつつ学ぶ。

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