2025年9月6日
(内容)
- 神はご自分の民を見捨てない。選ばれた民を残している。
(黙想)
- 1節で神はご自分の民を見捨てたのかとパウロは問う。そして「決してそんなことはない」と答える。
- これまでの流れを確認する。まず9章。パウロには心の痛みがあった(9:2)。それはイスラエルの民がイエスを信じなかったことである。神から見捨てられたものとなったのである。今一度彼らが神の民となることがパウロの願いである。
- まず神の民とは神の選びによるものであり、血縁関係によるイスラエル人が神の民ではない。しかも神の選びは、罪を犯し神の怒りを受けるべきものが、神の憐れみを受けて生きるように選ばれるのである。イスラエルにも救われるて神の民に入る可能性はある。
- 10章。イスラエルの民は神に熱心であったが、正しい認識を持っていなかった(10:2)。神の前に義とされるのは、自分の義を追求し、つまり律法を守り、神の前に自分を正しいと身の証を立てる者ではなく、イエスを信じる人である。イスラエル人(ユダヤ人)はイエスの語るのを聞いたけど信じなかった。神は彼らが信じるように手を伸ばしている。
- 11章。ここからが、今回のディボーションの箇所である。
- 神はご自分の民を見捨てたのかと、11章の最初でパウロは問う。神は見捨てていない、神に選ばれた者がいるとパウロは答える。パウロ自身イスラエル人であるが、イエス・キリストを信じている。
- エリヤの時代、イスラエルの王は主の預言者を殺した。エリヤは自分だけが主の預言者として残ったと悲観した。しかし神に選ばれた者は残っていると神はエリヤに語った。同じように今も、恵みによって選ばれた者は残っている。
- イスラエル人の人々がイエスを信じなかったのは、彼らがかたくなにされたからとパウロは書く(11:7)。
11:8 「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。
- 人は神から心を頑なにされたので信じないのではない。そうだとすると神を信じない罪を責められることはない。心を頑なにし、信じないのは、人間自身であり、人間の責任である。ではなぜ、人は心を頑なにするのか。それはわからない。そこで神がかたくなにしたと説明される。人が信じるのも、自らの決断で信じる。何故信じることができるのか、と説明を求められるのなら、それは神の恵みによる、神の導きによると説明される。
- 人間の視点で見ると、信じるか否かは、人間の決断による。神を信じない罪の責任は人間にある。神の視点から見ると、人は神に導かれて信じる。神によって頑なにされて信じないのである。
- 人間は本来罪に傾いており、神を信じることができない。神の恵みによって信じる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>ご自分の民を退ける方ではない。ご自分の民を残す方である。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>救いの招きに答えること。
- <教え>私たちは神の恵みによって選ばれ、信仰に導かれる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- 私が信仰に導かれたという事実、それは単に私が信じる決断をしたというだけではなく、あなたの導き、あなたの選びの恵みを受けたということを忘れてはならないと教えられました。あなたは私を顧み、憐れみ、信仰に導かれたという事実を胸に刻みたいと思います。しかも信じない人たちが沢山いるのに信じることができたことには聖霊の導きがあったことも心に刻みたいと思います。
- 天の父なる神、あらためて、私は信じる者として歩みます。聖霊の導きにより、私の信仰を確かなものにしてくださるように願います。今日は使徒信条を告白します。今日の導きを感謝し、イエス・キリストの御名により祈ります。
☆与えられた導き
- 使徒信条を告白する。