ルカ福音書 9章43~45節 無理解な弟子たち

2025年7月17日

(内容)

  • イエスは受難の二度目の予告を弟子たちに告げる。弟子たちは何が言われているのか理解できなかったし、イエスに尋ねることもできなかった。

(黙想)

  • イエスは二度目の受難予告を弟子たちに行う。マタイ、マルコでは、引き渡され、殺され、復活することまでイエスは語るが、ルカでは、イエスが捕らえられることだけが語られる。
  • マタイでは、弟子たちは非常に悲しんだとある。マルコとでは、弟子たちはイエスの言葉が理解できなかったが、怖くてイエスに尋ねることができなかったとある。ルカでは、イエスの言葉の意味は弟子たちに隠されていたと説明される。マルコ同様、弟子たちは怖くてイエスに尋ねることができなかったとある。
  • さらにルカでは、イエスは、自分の語る言葉を耳に入れておきなさいと語る。「耳に入れる」という表現は、きちんと受けとめよ、忘れるな、覚えておけ、との意味になるだろう。自分の死は、予定外のもの、思いがけないものではないことを知って欲しいのだろうか。
  • イエスは「引き渡される」としか言わない。殺され、復活することは言わない。耳に入れておきなさい、との注意で十分か。
  • そしてその意味は、弟子たちに隠されていたと説明がなされる。メシアが殺されるなんて、誰も理解できない。
  • また弟子たちは理解しようとイエスに尋ねることは怖くてできなかったとある。思いがけないことを聞くことへの恐れがあったのだろう。不吉なことは聞きたくないと思うのは人間として自然である。
  • イエスとしては自分がどこに向かうのかを確認していると言える。
  • この箇所から何を聞くことができるのか。イエスはメシアとして大なる力を示し、神の偉大さを示した。しかしエルサレムでは殺されるのである。メシアの歩みは、人間の目には不可解である。
  • でもイエスは「耳に入れておきなさい」と命じた。福音は、人間がその常識で理解できるものではないことを思う。理解できないから、信じられないからといって拒むのではなく、謙遜に理解できるように導きを求めることが大切である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>「耳に入れておきなさい」と命じた。しっかりと肝に命じておくべきことがある。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>理解できないように隠されていることがある。謙遜に理解できるように求めていくことが大切である。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。信仰に生きる時、理解できないことがあります。隠されていることがあります。この世の現実を見て、あなたが本当にいるのか、と疑問に思えることがあります。この世界の現実の意味が隠されていると言えます。理解できないように隠されていたとしても、それが明らかになる時がいつか来ることを思います。そのことを信じたいと思います。隠された意味を教えてくださいと祈りたいと思います。
  • 戦争の現実と失われる命の多さ。あなたはこの人間の現実をどうご覧になり、どうしようとされているのか、教えてくださいと祈ることにします。
☆与えられた導き
  • 神に祈る。

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  • 天の父なる神さま、
  • 私たちの世界は、戦争が起きています。権力者は力に物を言わせ、自分の思いを実現に至らせ章としています。権力者はそのためなら人命の犠牲を何とも思っていないようです。多くの命が犠牲になっている現実を覚える時、一日も早く平和が訪れることを願います。
  • 私はあなたがなおこの世界を支配しておられると信じます。あなたはこの世界の現実をご覧になり、この世界を見てどう思われ、この世界をどこへ導こうとされているのか、私たちには隠されている湯に思います。それとも「私はキリストを遣わした、キリストの平和をあなたたちに示した。キリストの平和を求めるがよい」と言われるのでしょうか。
  • この世界は罪が支配しています。キリストの平和を現実化するのはむずかしい現状でもあります。
  • 天の父よ、あなたの憐れみによって、平和をもたらしてください。またこの現実の中にある私たちに対するあなたの御心があるなら、お示し下さい。
  • イエス・キリストの御名により祈ります。

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