旧約聖書 ネヘミア記 1章1節~7節  

信友Aさんのデボーション。年始めのデボーションです。

2018年1月1日

〈内容〉

ペルシャの首都スサにいたネヘミヤが、ユダから来た一行から、捕囚を免れて残っているユダの人々の様子とエルサレムの様子を聞きます。困難で悲惨な状況を聞いて、ネヘミヤは泣き、嘆き、断食し、神様に祈りました。

〈神様はどんなお方か〉
  •  5節。畏るべき偉大なるお方。
  •  5節。神様を愛し、戒めを守る者へは契約を守り慈しみを注いで下さる方。
  •  6節。祈り求める者に、耳を傾け、目を開いて祈りを聞いて下さる方。
〈神様が求めるわたしたちの生き方〉
  •  (示される罪)7節。神様に反抗すること。神様からの戒めと掟と法を守らないこと。反抗する思いも、抱くことがあっても、正直に神様に打ち明けることをしなければ、神様を第一としていない罪にある状態。神様以外のことを第一とすることや神様から離れてしまうことは罪。
  •  (勧め)6節。捕囚のこととその後のエルサレムのことを、今を生きる自分のこととして受け止める。聖書の大昔のこと、他人事ではない。ネヘミヤのように、自分のこととして受け止めると、嘆き悲しみ、神様に祈らずにおられなくなり、自分中心の思いや行いに気づき、悔い改めたり、罪を避けることができる。
  • (模範)6節。ネヘミヤの祈りは模範
    ① 自分のことではなくエルサレムの人々のため、執り成しの祈りをささげている。
    ② 昼も夜も祈る(いつでも主に向き、祈る)
    ③ 断食して祈る(心をつくして祈っている姿)
    ④ 罪を告白する祈り(なんでも神様に打ち明ける正直さ)
  • (勧め)ネヘミヤの泣きながら執り成しの祈りをする姿から聖書の「喜ぶひとと共に喜び泣く人と共に泣きなさい」ローマの信徒への手紙12章15節が思い出された。そのような祈りをささげる者へと変えていただけたらと思う。
〈祈り〉
  • 新年を迎え、改めて昨年を振り返り、自分を点検し、神様から離れている部分や、神様を第一としていない部分を悔い改めて神様に祈る。
  • ある方から年賀状を頂いて、ご家族が受洗をしたと書いてあり、とてもうれしくなった。最近は、その方の受洗はまだまだ先なのかな、と勝手に思い込み、ちょっとあきらめて、祈りを忘れていたことを悔い改める。わたしが祈りを忘れていても、その方を神様が導いて下さっていたことに感謝して、その御業をほめたたえる。
  • 昨年の秋くらいから、わたしのいとこが信仰を与えられるよう、祈りを促されている。ずっと祈ってきたが、上記の姉妹が信仰に導かれたことを知り、希望がますます与えられた。途中であきらめたりせず、神様が必ず祈りを聞いておられ、いとこをすでに約束の道へと導いて下さっていることを確信して、感謝して祈る。
  • 信仰をあたえられて間もない兄弟姉妹のために祈る。信仰を与えられたことを感謝して、その方が御言葉によって日々新しくされて生きるクリスチャンの歩みをこれからもますます進められるように祈る。
〈与えられた導き〉
  •  とりなしの祈り。自分だけではなく、特に信仰を与えられてまだ間もない兄弟姉妹が、主にいつも立ち返り、御言葉によって生きることができるようにお祈りする。デボーションをお薦めする機会が与えられたら、御言葉に生かされる喜びと共に、デボーションをお伝えしよう。
  •  自分自身も今年もデボーションを継続する。御言葉によって歩むこと、示されたことがどのように神様に取り扱っていただいているか、振り返ることが少ない。やりっぱなしではなく、一週間の歩みを振り返り、感謝の祈りを捧げつつデボーションをする。分かち合いの機会も増やされるように希望をもって祈る。分かち合いで振り返ったり、主に立ち返るきっかけになると思う。

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