列王記上9章

2017年4月18日

朝、列王記上9章を読みました。神さまがソロモン王に語りかけます。そこには祝福の約束と警告が語られています。神の前に無垢な心で正しく神の前を歩み、神が命じたことを行う人への祝福の約束があります。対照的に神に背を向けて離れ去り、神の戒めと掟を守らない場合、神は、イスラエルの民と神殿を捨てるとの警告です。

 

私たちが神の前を歩むのか、神に背を向けて離れるのか、神の命じたことを行うのか否か、それによって私たちの行く末が変わってきます。祝福か、呪い(自ら招いた)か。私たちは自らの選択の結果を身に招くとあります。

 

祝福について神は、「わたしは絶えずこれ(神殿)に目を向け、心を寄せる」。警告については、「神殿もわたしの前から捨てる」。それではイエス・キリストの教会はどうなのでしょうか。具体的に自分が牧会する教会は神の前を歩んでいるのでしょうか、背を向けて離れているのでしょうか。私が属する教会は神の前を歩んでいるのでしょうか、背を向けて離れているのでしょうか。自らを吟味するように迫られます。引退した者としては牧会の責任を直接は負っていません。でも神さまの前に連帯責任を負っていると感じています。

 

以前、K牧師が牧師がお勤めとして説教をしていないか、と警告を発しておられました。礼拝をささげているから神の前に喜ばれる者として歩んでいると楽天的な判断はできないと思います。なぜなら、神さまは次のように語られる方でもあるからです。

お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。(イザヤ1:11)

今自分にできることは、自分が牧会した教会のために、今礼拝に出席している教会のために祈ること、同労の牧師たちのために祈ることです。今日はこれらのことを祈ることにします。

この記事を書いた人

コメント

コメントする