2017年12月15日
(内容)
救い主を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、神にとってふさわしいことです。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)5節。神は来たるべき世界(神の国)を天使たちに従わせることをしないで、むしろすべてのものを御子に従わせようとされた方。
- (御父)10節。神は救い主を数々の苦しみを通して完全な者とされた方。
- (御父)10節。神は万物の目標であり、万物の源である方。
- (御父)10節。私たち人間を栄光へと導く方。
- (御子)9節。死の苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を授けられた方
- (御子)9節。すべての人のために死んだくださった方
- (御子)11節。人を聖なるものとする方
- (御子)11節。御自分を信じる者を兄弟と呼ぶことを恥としない方
- (御子)12節。神の名を人々に知らせる方。
(黙想)
- 御子は完全な者とされたとあります。ヘブライ人への手紙の5章8節には「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり」とあります。完全な者とは、神さまに対して徹底して従順な人のことを指すと思われます。
- これと似たことはフィリピの信徒への手紙2章6~8節にも書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
- 御子は救い主としての姿を輝かせてこの世においでになり、人々を救いに導いたのではなく、神としての身分を捨てて人となり、人間によって苦しめられて十字架の上で死なれました。人間を救おうとし、人間に殺されました。
- 御子イエスには、見るべき面影はなく、輝かしい風格も好ましい容姿もありませんでした。イエス様は、人々が救い主として期待し崇めるような外見をまといませんでした。十字架の上でみじめな死を遂げたのです。そこには父なる神に対する従順を学ばれた御子の姿があります。そこには、人間にはできないことがあります。(a)自分の身分を落とす。
(b)他者のために自分の命を犠牲にする
(c)しかもそれを神の命令と受けとめ従順に従う
- 我々人間にはプライドがあり、身分を落とすことはできません。したくないのです。名目が何であれ、他者のために命を犠牲にすることもできません。それを神が命じたとしても、それは無理、できっこありませんと拒むのが人間です。
- 封建時代は主君のために家臣は戦い、主君のために命を投げ出しました。そこには、主君に忠誠を尽くしたという名誉が残ります。イエス様の場合は、十字架の上で、惨めな死に様をさらしただけです。人々の目には、神の国を宣べ伝えたにしても、その働きがそこで挫折した死に他なりませんでした。その死は、人間を救うための死でした。私たち罪人を救うための死でした。イエス様は神としての身分を捨て、罪を犯すどうしようもない人間のために命を捨て、さらにはその人間を兄弟と呼んでくださいます。これは信じられないことです。
- イエス様は「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と教えられました。人間は他者を軽んじる者なのです。自分の方が上だと考え、自分より低いと考える者たちを軽んじるのです。私たちは人を見下し、軽んじるものですが、そのように自分が軽んじる者を兄弟と呼び、この兄弟のために犠牲を払うことはできません。プライドが人間にはあります。プライドを人間は捨てることができません。しかしイエス様は、神の身分を捨てて人となり、罪人の救いのために自分の命を犠牲にし、私たちを兄弟と呼んでくださいます。あり得ないことです。
- ヘブライ人の手紙で著者は、「私たちは、イエスが死の苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を授けられたのを見ています」(9節)と語ります。十字架のイエス様に「栄光と栄誉の冠が授けられているのを誰が見たのでしょうか。そこには裸で鞭打たれて血を流し、まさに死なんとし、また死んだイエスの姿があるだけです。だれがそこに「栄光と栄誉の冠」を見たのでしょうか。
- 自分の身分を落とし、しかも罪人のために命を犠牲にすることは、正気の沙汰ではありません。私たちには理解できません。その理解できないことをイエス様はなさいました。そこには罪人に対する深い憐れみと愛があります。この憐れみと愛を知る人は、イエスを模範として神に従順に歩むに違いありません。また神に従順に歩む者は、イエスの、そして神の深い憐れみと愛を知る者となります。イエス様の従順に倣う人が、十字架のイエス様が「栄光と栄養の冠」を授けられたのを見るのだと思います。
☆神が私たちに求める生き方
- 神を畏れ敬い従順に生きること。
(神の導き)
☆祈り
- 父なる神様、イエス様の十字架について黙想することができたこと感謝します。あらためにイエス様の従順について考えさせられました。私たちはあなたへの従順を拒み、自分は頑なであるとか、愚かであるとか、自己卑下をして言い訳をするものです。結局、私たちは神さまの愛が分からないのです。イエス様は神の身分を捨て、自分の命を投げ出すのに値しない者のために命を犠牲にし、さらにはそのような者を「兄弟」と呼んでくださいます。このようなイエス様のお姿は、罪人である私たちには理解できません。
- しかし自分がイエス様に愛され、兄弟と呼ばれていることを知る人は、イエス様に倣い、イエス様のように歩むことを志すと信じます。そして自分もそのようにイエス様に倣い、神さまに従順に歩みたいと願います。
- 天の父、私は教会を辞任し牧会の現場から離れました。牧会の責任を負う羊はいません。しかし「祈ってください』との声が聞こえてきます。自分のためではなく他者のための執り成しに励むことが求められていると感じます。それがあなたに対して従順になることと考えます。祈りの人として成長させてください。
☆与えられた導き
- 「祈ってください』との声をまとめて祈りの課題とし祈り続ける。