ヨハネ福音書 19章28~30節

2020年4月3日

(内容)

  • 十字架にかけられたイエスはすべてのことが成し遂げられたと知り、「渇く」と言われた。人々がぶどう酒を一杯に含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に指しだした。イエスはこのぶどう酒を受けると「成し遂げられた」と語って息を引き取った。

(黙想)

  • イエスが「渇く」と言われたことについて聖書の言葉が実現したとヨハネは書く。「渇く」、これも詩編22の言葉。詩編22の冒頭の言葉は、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか」。絶望の言葉である。そしてこの「渇く」も人々から苦しみを受けたときの言葉で、これに「あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」と続く。詩編22は神に見捨てられた絶望を語っている。
  • しかし十字架のイエスは「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」とある。そして「成し遂げられた」と言って息を引き取る。イエスは使命を果たし終えたと言って亡くなる。
  • ヨハネはどのような意味で聖書が実現したと語るのか。聖書に「渇く」という言葉があるからそれを引用したというわけではないだろう。やはり詩編22の内容を意識しての引用であるはず。でも十字架のイエスは使命を果たし終えて自分は死ぬと言っている。イエスの最後は処刑の死であるが、この死を通してイエスは父のもとに帰るのであり、イエス自身自の死が神に見捨てられての死と考えてはいないと思う。少なくともヨハネ福音書においては。
  • 詩編22は1~22節までが絶望的な状況の中にある人の叫びとなっている。しかし23節以降は神賛美となっている。28節は「地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように」と祈りとなっている。これは教会の祈りということもできる。すべての人がイエス・キリストを認め、神に立ち帰るようにとの祈りである。
  • ヨハネ福音書は「わたしは・・・である」とのイエスの言葉をいくとも書いている。これは信仰者にとって信仰者と共におられる復活の主イエスがどのようなお方かを語っている言葉である。復活の主を語ることにヨハネは重点を置いている。それゆえヨハネ福音書では、十字架の意義はあまり語られない。しかしイエスの死の意義を指し示す痕跡だけを残そうとしているのかも知れない。
  • 「聖書の言葉が実現した」との言葉は、イエスが待ち望まれていた救い主メシアであることを証ししている。
  • 異邦人の僕は、救い主の到来を待ち望んでいたわけではない。むしろ救い主であるイエスを信じた。そして聖書を読み、イエスが待ち望まれていた救い主であることを知ったのである。
  • イエスは「成し遂げられた」と語って息を引き取った。僕はどんな言葉を残して死ぬのだろうか。どんな言葉を残したいのだろうか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)「成し遂げられた」と言って息を引き取った。自分は使命を果たし終えたと言って生涯を全うした方。
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)信仰は神との交わりであり、イエスはご自身がいかなる方かを告げる使命を果たされた。漠然とイエスを信じるのではなく、イエスがいかなる方であるかをわきまえてイエスとの交わりに生きる。
  • (勧め)使命を果たして生涯を全うすること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日はイエス様の死の場面を読みました。「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。イエス様は救い主として、ご自身がいかなる方であるかをお示しになりました。イエス様は私の羊飼いであり、私は羊飼いに導かれ、養われる羊です。私はみ言葉に導かれ、み言葉に養われる者です。イエス様に導かれ養われていることを感謝します。これからも羊飼いであるイエス様について行くことができるように導いてください。
  • 神さま、イエス様は使命を終えてあなたのもとに帰られたのですね。羊飼いがあなたのもとに行かれたのなら、羊である私もあなたのもとに帰るのですね。私は羊飼いであるイエス様について行き、あなたのもとにまで行くのですね。今日はいいことを教えられました。死を越える希望を支えるみ言葉です。うれしいです。このうれしさを歌にしてみたいと思いました。
☆与えられた導き
  • イエス様について父なる神の御許へ行く喜びを歌にする

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我は行く イエスについて どこまでも
ついに至るは 神の御国ぞ

おのが死は 父なる神に 戻る道
使命を終えて われも辿らん

不安とは 信じる心の 影にして
前見て歩めば 見えることなし

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