2020年4月8日
(内容)
- ユダヤ人たちは、翌日が安息日なので遺体を十字架に残しておからないようにピラトに願い出た。兵士たちはイエスの死を確認したが、兵士の一人がイエスのわき腹を槍で刺すと血と水が流れ出た。
(黙想)
- ユダヤ人たちはイエスの遺体を足を折って取り降ろすようにピラトに願い出た。ユダヤ人たちはイエスを十字架につけるようにピラトに迫った。後処理として、イエスの遺体を取り降ろすように願い出たと思われる。「足を折って」とあるが足を折ることの意味は何か。イエスは死んでいたので足を折られなかったが、イエスの両脇にいた人たちはまだ生きていたので足を折られている。
- 兵士の一人がイエスのわき腹を槍で刺した。なぜ刺したのか。すると血と水が流れ出たとある。これは他の福音書にはない記述。そしてこのことを目撃した証人がいること、その証言は真実であると書かれている。この血と水に関する記述は大切なのである。ヨハネの手紙一5章にも血と水の記述がある。
- この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。(ヨハネ一5:6)。
- 福音書はイエスの「わき腹から血と水が出た」と書く。ヨハネ第一の手紙は、イエスは「水と血を通ってこられた方」と書く。水と言えば、洗礼を指すと思われる。イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けて活動を開始した。血は、言うまでもなくイエスが十字架の上で流された血を指すにちがいない。
- なぜ血と水に言及するのか。血と水は何を意味しているのか。血と水はイエスがメシアであることを指し示すしるしであることを意味しているのか。それとも洗礼と聖餐を意味しているのか。ヨハネ福音書は最後の晩餐を書いていない。その代わり6章でイエスは次のように語る。
- 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(6:54~56)。これは聖餐を指していると考えることができる。
- なぜ血と水に言及するのか。ヨハネ福音書では、「ユダヤ人」という言葉が出てくる。他の福音書では、律法学者とかファリサイ派の人々がイエスに敵対しているが、ヨハネ福音書では「ユダヤ人」がイエスに敵対している。クリスチャンがユダヤ人から迫害を受けている状況の中で、復活のイエスはいかなる方であるかをヨハネは描いている。とすれば血と水は、キリスト教のアイデンティティーを意味するとも考えられる。それは洗礼と聖餐である。割礼と過越の食事はユダヤ人のアイデンティティーを示している。
- 兵士たちはイエスの足を折らなかったことについては、聖書の言葉が実現するためであったと書かれている。イエスの死は預言されてものであったことを示す。骨を折ることについては、過越の食事の規定の中で、屠られる小羊の骨は折ってはいけないとされている。イエスは神の小羊(ヨハネ1:29)として屠られた。イエスの足が折られなかったのは、神の小羊だからとの主張があるのか。
- さらに「自分たちの突き刺した者を見る」という聖書の言葉も実現したとされる。ユダヤ人たちはイエスを死に追いやったことを現している。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>イエスは十字架の上で亡くなられ、槍でわき腹を刺されたとき、血と水が流れ出た。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>血と水が大切なこととして教えられている。イエスを信じる信仰において、洗礼と聖餐が大切なことであることが教えられているように思える。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日は血と水について思いめぐらしました。先日ある神学者の本を読んでいたとき、「プロテスタントの信仰が日本に入ってきたとき、洗礼を聖餐を重んじることは教えられ、重んじられてきたが、その意味は十分に教えられてこなかった」書かれており、同感でした。大切だと言われますが、なぜ大切なのか、十分語られていないし、牧師たちも自分の言葉でその大切さを語ることができないのかもしれません。
- 天の父、わたし自身もそうです。聖餐の意味について、本から学ぶことはできますが、今ひとつピンとこない面があります。真理を追究する者として、聖餐について、確かな理解を得たいと思いました。まずは、上に述べた神学者が聖餐についてどのように語っているのか、調べてみたいと思います。
- またと水について、注解書を2,3当たって調べたいと思います。
☆与えられた導き
- 血と水について注解書で調べる
- 神学者の考えを調べる。
~~~~~~
- 注解書では大した説明はなかった。洗礼を聖餐を指しているのではないか、と推測をしている。
- あるいは主イエスを信じる者の内から流れ出る生ける水を指すとする者もある。いずれにしろ、水と血に関する思いめぐらしを深めることはむずかしい。