2018年11月17日
(内容)
- パウロはフィリオイ教会のことを共に福音にあずかっていると確信し、フィリピ教会のために祈ります。
(黙想)
- パウロはフィリピ教会が、「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」(5節)と語ります。「福音にあずかる」は、単に福音を信じる者になった、ということだけを意味してはいません。1章27節を読むと、「心を合わせて福音信仰のために共に戦っており」とあります。福音にあずかるとは、福音を受け入れるだけではなく、福音のために戦うことを意味しています。30節では、フィリピ教会はパウロの戦いと「同じ戦いを戦って」いますとあります。パウロにとってフィリピ教会は福音宣教を行う同志です。
- 6節の「善い業」も、フィリピ教会が福音のために戦っていることを意味していると思います。さらに7節の「共に恵みにあずかる」も福音宣教の苦労を味わうことを意味していると思われます。29節には、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことをも、恵みとして与えられている」とあります。
- パウロにとってフィリピ教会は愛すべき同志なのです。フィリピ教会のための祈りがここに記されています。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)神さまは信じる者に働きかけ、善い業を行わせる方です。そしてそれを私たちが成し遂げることができるように導かれるお方です。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)10節。本当に重要なことを見分けることができるように。本当に重要なことを知り、それによって私たちが自分の歩みを整えること。
- (教え)10節。キリストの日に備えて、清い者、咎められるところのない者となり神をたたえること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、パウロはフィリピ教会が自分と心をひとつにして共に福音のために戦っていることを感謝しています。福音のために戦う教会、素晴らしいです。パウロが現代の教会を見たら何というのでしょうか。
- 今日の聖書で心惹かれたことは、「キリストの日に備えて、清い者、咎められるところのない者」になりなさいとの勧めです。先日、夜の祈祷会で、詩編51を読みました。ダビデは「神よ、わたしの内に清い心を創造し」てくださいと祈っています。清い心とはどんな心なのでしょうか。イエス様は「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」と教えられました。心の清い人とは、神さまと心を一つにする人であると私は考えます。神さまの御心を実践して生きようとする心、それが清い心だと私は考えています。キリストの日とは、終末の時ですね。私たちが天に迎えられるとき、清い者として迎えられるように、とパウロは祈っています。私も清い者となることを願います。
- ディボーションを行い、あなたと心を一つにする努力を続けていますので、これはこのまま継続していきます。それで今日と明日、自分の心を観察します。どんな思いが湧いたのか、御心に反する思いがあるかどうか、チェックしてみたいと思います。
☆振り返って
特に御心に反する思いが心に浮かんでは来なかった。隠退牧師の人間関係がゆるやかな生活なので、悪しき思いが湧いてくることは特になかった。心の清い人なら抱く思いを抱かなかったということはあるかもしれません。これについては、それがどんな思いなのかわからないので、問題にはしない。問題になるなら、神さまはそのことを教えてくださるに違いない。