2019年2月20日
(内容)
- 死者からの復活に達したいとのパウロの願いが語られる。
(黙想)
- パウロは、「生きることはキリストである」と述べた(1:21)。この世を去ってキリストと共にいることを熱望しているとも語った(1:23)。キリスト者は、キリストに結ばれている者であることも語った(1:26、2:29)。パウロは「キリストを知ることのあまりの素晴らしさ」という言葉を書いた。
- 今日の聖書において、パウロはキリストを知る、キリストの復活の力を知ること、キリストの苦しみにあずかることにより、キリストの復活に達したいとの願いを述べている。キリストの復活の力とは、キリストを死者の中から復活させた神の力のこと。キリストを死者の中から復活させた神の力は信仰者にも働き、信仰者を新しい人間として生まれ変わらせ、キリストに結ばれる者とし、キリスト者の歩みを全うさせる力である。
- パウロは福音を宣べ伝える使命を与えられたが、そこには苦難が待っていた。彼はその苦難を引き受けることをキリストの死にあずかるという。キリストも人類を救う神の計画に仕え、苦しみを味わい、最後には死を遂げた。神はこのキリストを復活させた。パウロはキリストの歩みにあずかることを願っている。それはキリストの死者からの復活にあずかるためと考えている。
- パウロはキリストの復活は信仰者の復活の初穂と語った。私たちも自分の復活を信じる。信仰者の復活は教理としても語られるが、パウロは神の約束として受けとめている。そしてキリストが苦難の死を遂げそして復活したように、自分もキリストの苦しみにあずかり、復活にもあずかりたいと考えている。そのようにして、神の約束の実現を信じ、また目指している。
- アブラハムも神の約束を与えられ、その約束の実現を信じて、一歩を踏み出した。住み慣れた地を離れて神が示す地に向かって旅をした。約束を与えられるとは、その約束の実現に向かって歩むこと。パウロは、自分の復活を教理として信じて、自分は復活すると納得、確信したのではない。自分の復活を神の約束として信じ、その約束の実現に向かって歩んだ。
- 僕は、自分の復活を信じる。礼拝の中で使徒信条を告白し、「・・・罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず」と告白している。復活は自分の死後のことだから、確信できない部分がある。そこから不安や疑いが生じないとは言えない。だからこそ自分が信仰に生きる者であることを確認する。いや告白する。自分の信仰を奮い立たせるのである。しかしパウロは、約束を信じるように自分を奮い立たせるのではなく、約束に向かって歩み出す。キリストの苦しみにあずかる歩みを実践し、キリストの復活にあずかることを願う。行動的である。キリストと一つになって生きようとするパウロ。キリストと一つになり、キリストの苦しみにもあずかり、復活にもあずかりたいと考えている。
- キリストのための苦しみを避けてはならないし、むしろ、キリストの苦しみにあずかるものとして、苦難を受けとめる。それは復活の実現を見ているから。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- (模範)キリストの苦難にあずかり、キリストの復活にあずかることを願うパウロの姿勢は、復活を願う信仰者の模範である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、パウロは福音宣教に伴う苦しみは、キリストの苦しみにあずかることと考え、それはキリストの復活にあずかることにつながると考えている。パウロは自分はキリストと一つとされていると考えています。パウロは復活を教理として信じているわけではなく、キリストの死と復活にあずかる信仰者の歩みとして復活を信じているように思います。
- 私も復活を教理として信じるというより、むしろ約束として信じ、キリストの苦しみにあずかりキリストの復活にあずかるという信仰の道を歩みたいと思いました。キリストの福音とは、福音を宣べ伝えることに伴う苦しみです。キリストを証しする時に伴う時の苦しみです。
- 昨日、S牧師から電話があり、もう一年無牧の教会の礼拝説教奉仕をしてもらえないだろうかとの内容でした。後任の牧師が決まらず、もう一年奉仕の依頼を受けた時どうするかは考えていましたので、引き受ける旨、返事をしました。しかし内心、肉体的にはしんどいなとも思いがありました。でも今日聖書を読み、キリストの苦しみにあずかることを教えられました。G教会への往復の肉体的負担は、キリストの苦しみ、パウロの苦しみと比べれば比較になりません。でも今日の聖書により、自分がどのような思いでこの奉仕を受け入れるのか、その理由付けができたことをうれしく思いました。あなたが応援、支えてくださると受けとめることができました。感謝します。喜んでこの奉仕をしたいと思います。
☆与えられた導き
- もう一年、G教会への説教奉仕を喜んで行う。