2020年6月2日
(内容)
- 信仰者はキリストと共に復活させられたのだから、上にあるものを求めなさいと勧められる。そして地上のものに心を引かれないようにと警告がなされる。
(黙想)
- 洗礼を受けた信仰者は、洗礼によってキリストと共に葬られ、またキリストと共に復活させられた(2:12)ことが信仰者の生きる前提とされている。2章20節以下では、キリストと共に死んだゆえに、世に属しているような歩みをしないように勧められた。
- この3章では、キリストと共に復活させられたのだから、上にあるものを求め、地上のものに心を引かれないようにしなさいと勧められる。
- クリスチャンのアイデンティティーがはっきりを示され、そのアイデンティティーに生きるように教えられる。キリストと共に死んだ者、キリストと共に復活させられた者。これがクリスチャンのアイデンティティーである。このアイデンティティーに立って生きる。それゆえ、上にあるものを求め、地上のものに心引かれてはならないのである。信仰者になる以前は、地上のものに心引かれ、上にあるものには無関心だった。
- 信仰者のうちには肉の性質、つまり生まれながらの人間の性質があり、上にあるものを求めて生きることを邪魔し、地上のものに引かれてしまう傾向がある。そこで信仰者の聖化ということが言われる。肉の性質を克服し、聖なる者へと変えられていくのである。聖なる者、これも信仰者のアイデンティティーであり、私たちは聖なる者とされているので、さらに聖なる者になることを目指して生きる。
- そこで問題は、キリスト者のアイデンティティーに生きることを受け入れ、歩み出すことができるか、ということ。キリスト者のアイデンティティーは実感できない。だから信じることになる。自分は神の子にされている、新生している、聖なる者とされている、聖霊がうちに宿っている、罪から解放されているなど、にわかには信じられない。信じられないものをなぜ信じるのか。
- クリスチャンのアイデンティティーは、神の救いの働きが信仰者に及んでいるから、これを信じるのである。「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2:12)。キリストを復活させた神の力を信じて、つまりこの神の力が私たちにも及び、私たちもキリストと共に復活させられたこと、つまり神の子とされ、新生し、聖なる者にされていることを信じるのである。
- しかし、なかなか実感できないから信じられない人もいる。信仰者として生きようとし、行きづまりを感じないと、このアイデンティティーを受け入れることはできないと思われる。僕は行きづまりを感じて、アイデンティティーを受け入れた。そこには自由と希望があった。行きづまりを感じなければ、自分を変えようとは思わないし、変えられたいとも思わないだろう。もし自分が変えられたいと願うなら、神さまが私たちを変えてくださることを受け入れることが大切で、神さまが願うのとは違う方向で、自分を変えられたいと願っても、それは間違っているし、意味がない。
- 人はとにかく真剣に信仰に生きることである。み言葉に従うことである。その上で信仰者としての自分、あるいは自分の信仰生活を考えたらいい。評価したらいい。それは神の祝福を受けている自分、神の祝福を受けている信仰生活になっているのか考えたらいい。
- 3節「あなたがたは死んだのであって」。強烈な言葉である。誰が、自分が死んだことを認めることができるのか。洗礼は、キリストと共に葬られること、つまりキリストと共に死ぬことなのである。洗礼によりキリスト者はキリストと共に復活させられ、新しい命に生きる。これは神からくる命である。この命は見えないし、感じることもできない。しかしキリストが再臨されるとき、つまりキリストが現れるとき、この命は現れ、キリスト者はキリストと共に栄光に包まれるという。
- その時、キリスト者は復活をし、キリストと共に栄光に包まれる。これがどういうことかははっきりとはわからない。はっきりとはわからないが、とてつもなく素晴らしいことが、とてつもなく光栄なことが私たちを待っていると信じるてよいし、信じることができる。信じたい。
フィリピ3:21
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。ヨハネ一3:2
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです
上にあるものを求めなさい。上にあるものとは何か。
コロサイ3:24
あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。
上にあるものと求めるとは、御国を受け継ぐことか。そして御国を受け継ぐ者としてふさわしい歩みをするということか。
コロサイ4:11
ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。
上にあるものとは神の国。それゆえ上にあるものを求めるとは、神の国のために働くことと読める。神の国を目指すものとして、ふさわしい歩みをしなさいということか。キリスト者としていかに生きるか、さまざまな勧めがこの手紙の中でなされている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御子>神の右の座についておられる
☆神が求める私たちの生き方
- <勧め>上にあるものを求めること
- <警告>地上のものに心を引かれないこと
- <約束>キリストの再臨の時、私たちもキリストと共に栄光に包まれる
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書で私が一番心を惹かれたのは、キリストと共に栄光に包まれるということです。信仰者の希望がイメージとして描かれています。聖書には、キリストの栄光あるからだと同じ形に変えられるとあります。あるいは御子に似た者となるともあります。年をとった信仰者はどのような希望を抱いて最後を迎えるのかは課題だと思います。
- 主と同じ姿に変えられていく、それはキリスト者の生涯の課題となります。そしてこれを課題としてわたしは歩んできました。今日の聖書を読んで、キリストが現れるとき、キリスト者はキリストと共に栄光に包まれるとありました。これはうれしいことです。神の国のイメージを思い描き、確かな希望に立ち、この世での最後の時を迎えたいと思いました。今日はE.M.バウンズの『天国』をもう一度読みたいと思いました。またリビングプレイズで「栄光から栄光へ」を賛美したいと思いました。いつでもどこででも、死の床にあっても賛美できるようにしたいと思いました。
☆与えられた導き
- EMバンズの本を読む
- 「栄光から栄光へ」を賛美する。