2025年6月26日
(内容)
- イエスを恥じないで、イエスに従う歩みをする。
(黙想)
- 23節で、イエスについて来たいと願う者がどうするかが教えられる。自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスに従うのである。
- 24節。「なぜなら」というギリシャ語があり、理由を示す。なぜイエスに従うのか。自分の命を救おうとする者はそれを失うが、イエスのために自分の命を捨てる者はそれを救うとある。自分の命を救いたいと願う者は、イエスのために命を捨てることが大切なのである。だから、自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスに従うのである。自分の命を救うためにイエスに従うことを願うのである。
- 25節。この節にも「なぜなら」とある。
- ここには「全世界を手に入れても」とある。これは言い換えると、自分の命を救おうとする人間の営みである。自分の命を救おうとする営みは成功したのである。しかし、自分の身を滅ぼしたり失ったりしたら、全世界を手に入れても意味がないという。
- 自分の身を滅ぼすとか、失いは何を意味しているのか。たとえば病気になって寝たきりになったり、あるいは死んでしまえば、全世界を手に入れても役に立たないということか。地上の宝は当てにならないということか。宝は天に積めとイエスは教えた。
- 26節。「わたしとわたしの言葉を恥じる者は」とある。この「恥じる」とイエスに従うことが対比されているといえる。イエスを恥じる者は、終わりの日にイエスが再臨する時、イエスからあなたを恥じると言われる。イエスに従う者は、受け入れられる。終わりの日に受け入れられるか否か、それが一番重要なのである。イエスを恥じるか、イエスに従うのか。それが問われる。
- 地上の宝は、終わりの日には、何の役にも立たない。
- 自分の十字架を背負うとはどういうことか。イエスに従う歩みの中で直面する困難と言える。イエスに従わなければ負う必要のない困難である。
- イエスに従う、それが大切なのである。老いの身にとってイエスに従うとはどういうことか。神の国を目指すことを意識して生きる。神の国の希望に生きること。老いの時期も試練の時期でもある。神の国の希望に立って歩むことが大切である。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>キリスト者が御子に従って生きることを望んでいる。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>イエスに従う歩みをする。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- 老いの中にある者として、イエスに従う歩みはどのようなものかと考えました。今日の聖書によれば、イエスが再臨される時、イエスにほめられる者でありたいと願います。イエスの再臨、最後の裁き、神の国に迎えられることを覚えて歩みたいと考えます。
- 老いの時期は試練の時期でもあります。心身の衰え、伴侶を喪うなど、試練があります。伴侶を喪い、喪失感と寂寥感で悩んでいる人を知っています。老いの時期、あなたを信頼し、あなたを賛美しつつ、信仰の歩みができるように祈りたいと思います。どのような試練が訪れても、御言葉に親しみ、あなたに信頼して歩めるように導きを祈りたいと思います。あなたの導きに歩む者でありたいと願います。「老いの中、どのような試練に直面しても、あなたに信頼して祈り歩む」ことを課題とします。
☆与えられた導き
- 「老いの中、どのような試練に直面しても、神に信頼して祈り歩む」ことを課題とする。