2024年3月28日
(内容)
- アリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を引き取りを願い出て、イエスの遺体を墓に納めた。
(黙想)
- ヨセフについては、神の国を待ち望んでいたとある。彼は議員、つまり最高法院の議員である。最高法院はイエスを裁判で死刑にした。すべての議員がイエスの死を望んでいたわけではないことが分かる。
- しかしイエスは死罪とされ、十字架で処刑されて死んだ。墓に葬られたことは死んだことが事実であることを意味する。イエスの復活については、それは死んだように見えたが実は死ななかったのであるとの異論があるかもしれない。しかし墓に葬られたことはイエスの死は現実であることを意味する。
- イエスは自分の霊を神にゆだねて死んだ。これは紛れもない事実である。人となった神の子は、死んだ。そして三日目に復活する。復活の前提は死である。
- 老いの中にあって、目をどこに向けるのか。神の国を仰ぐのか、死に目を止めるのか。確かに待っているのは自己の死である。キリスト者は死の向こうにある神の国を仰ぐことができる。イエスは、御自分が「苦難を受け、殺される。しかし復活する」と弟子たちに繰り返し語った。
- 復活を信じて死ぬ、それもまたイエスに倣うことであり、地上生活は、イエスに倣うことをもって終わる。
- 信仰がなければ死は終着点である。そして人は死を宿命として受けとめる。しかしキリスト者は神の国を仰いで、死を通過点として受けとめることができる。ありがたいことと受けとめる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>死んで葬られた方。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。老いた者として、自分の死を意識しますし、これをどのように受けとめたらよいのかと日頃から考えています。キリスト者には神の国の希望が与えられています。この希望がある、それで十分ではないかとの思いがあります。でも死というのは、特別な出来事です。いつの日か、死に至る過程の中に身を置くことになります。その時、できる限り平安な思いで過ごしたいと考えます。どうしたらそれができるのかと聖書を読みながら、手がかりを探っています。
- 受難節そして受難週、聖書を思いめぐらす中で、あらためて主イエスが死んだことを思います。神の子が人となり、人として死にました。死ぬとは、神の子の死に倣うことであるという思いを持つようになりました。死は、地上の歩みで最後になすキリストに倣うことです。私たちはキリストに倣って死んでいく、このように考えることができるのは幸いであると思いました。感謝します。
- 今日は、讃美歌の中から、神の国の希望を歌う讃美歌を拾い上げ、自分への励ましにしたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 神の国の希望を歌う讃美歌の一覧表をつくる