ヨハネ福音書 8章1~11節

2019年9月27日

(内容)

  • 律法学者やファリサイ派の人々は姦淫の現場で捕らえられた女を連れてきて、イエスを試した。

(黙想)

  • 律法学者やファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女をイエスのもとに連れてきて、イエスを試す。律法には姦淫をした者は死刑に処せられるとある。その女をどうしたらよいと考えるか、とイエスに問う。
  • もしイエスが律法に従い女を石で打ち殺しなさいと言うなら、その主張は正しいとしても、イエスの評判は悪くなる。女に対して「打ち殺すべきだ」と言わないなら、イエスは律法違反と訴えられる。どちらを答えるにしろ、結果はイエスにとってよくいない。イエスは罠を仕掛けられた。
  • 律法学者やファリサイ派の人たちは、その女性は石打ち刑に値すると考えている。それを実行するには裁判が必要になる。彼らは心の中で、この女性を死に値すると裁いている。そしてイエスを試すのは、悪意に他ならない。
  • イエスはこのような悪意に対応しようとしない。イエスは律法学者たちの問いに答えようとしない。指で地面に何かを書いて答えなかった。他者の悪意に応じないというのは知恵である。私たちは応じることによって、その悪意に巻き込まれ困難の中に身を置くことがある。
  • 律法学者たちがしつこくイエスに迫るのでついにイエスは答えた。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。
  • イエスは罠に陥らず、賢い答えをされた。イエスは律法学者たちの悪意に応じなかった。それどころか、彼らに自分の罪を気づかせるという逆襲を行ったことになる。
  • 人々が皆立ち去ったとき、イエスは女性に「私もあなたを罪に定めない。行きなさい」と語る。イエスは人を罪に定めるお方ではない。人を裁くお方ではない。律法学者はファリサイ派の人々は心の中で、この女性を裁いていた。
  • イエスは、ただ女性に「もう罪を犯してはならない」と命じられた。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)イエスは、人を裁かないお方である。
  • (御子)イエスは、「罪を犯さないように」と命じるお方である。
  • (御子)イエスは、他者の悪意を見抜き、応じない方である。
☆神が求める私たちの生き方
  • (模範)イエスは人を裁かないお方である。
  • (罪)人を裁いてはならない。心の中でも、裁いてはならない。
  • (教え)他者の悪意に応じてはいけない。自分が巻き込まれることになる。人の悪意はそれと分かるわけではないので注意が必要。
  • (命令)罪を犯してはならない。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができて感謝します。よく知られた聖書箇所です。印象に残ったのはイエスが自分に対して悪意を持つ者の言葉に応じようとしなかったことです。悪意を持つ者の言葉は罠とも言える言葉でした。私たちも日々の生活の中で、色々な人から呼びかけられ、語りかけられます。つい応じようとします。そこに危険があることを知ります。
  • 先日、ある人から電話があり、悩みを打ち明けられました。自分に対する怒りや責める言葉を投げつけられ、心が折れそうになるとのことでした。自分の経験から悪意ある言葉に対してそれを拒むことの必要をお話ししました。巻き込まれると自分が死んでしまいます。彼のために祈ります。
  • かつて私も心の中で人を裁いたことがあります。それは何も生み出しませんでした。裁くことの空しさを知りました。裁く代わりに、その人のために祈ることが大事だと知りました。今、裁くことはしていませんが、心の中で突き放してしまう人がいます。自分とは関係のない人だと思いたいのです。実際ほとんど関係のない人です。教会のことを考えると、関係のない人と言い切れません。教会のために、執り成しの祈りをした方が良いのかもしれません。導きを感謝します。
☆与えられた導き
  • Nさんのために祈る。
  • Kさんを覚えて祈る。

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