ヨハネ福音書 11章28~37

2019年12月3日

(内容)

  • イエスのもとにマリアが来て、やはり早く来てくれればラザロは死ななかったのにと嘆いた。彼女が泣き、一緒にいたユダヤ人が泣いているのを見てイエスは心に憤りを覚え興奮し、さらに涙を流された。

(黙想)

  • マルタは家に戻り、マリアがイエスのもとに来た。イエスはマルタと話した場所にずっといた。何をしていたのだろうか。
  • マルタに言われてマリアはイエスのもとに行った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。マルタと同じ言葉。正直な気持ち。なぜ早く来てくれなかったのか、との思いもあるだろう。
  • マリアが泣き、マリアと共にイエスのもとに来たユダヤ人たちが泣いているのを見た時、イエスは心に憤りを覚え、興奮された。イエスの心に何が起きたのか。37節で「盲人の目を開けたこの人も、ラザロを死なないようにはできなかったのか」と言う人がいた。これから考えると、ここに描かれている場面では、死が支配している。そのことに対してイエスは憤られたのではないか。イエスは、死の支配を許さない。「わたしは復活であり、命である」と宣言されている。
  • そしてイエスは涙を流された。何の涙か。死の支配に中に置かれている人間に対する涙ではないか。人々は、死が支配していることを当たり前のことと思っている。死は当たり前のことではない。聖書全体から言えば、死は人間の罪の結果生じたものであり、人間は罪と死の支配下に置かれている。その人間の悲惨な状況に対して、イエスは涙を流されたのではないか。
  • 僕自身、小さい頃に死の恐怖を味わい、大学生の時に生きる空しさを感じ、私の心は深い孤独と悲しみの中にあった。そんな私対して、イエスは涙を流して下さったと考えると、涙が出てきそうになる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)33節。イエスは死の支配が人々を覆っているのを見て憤りを覚えられる方である。人々が死の支配に屈しているのはよくない、そんなことがあってはならないと感じられたのである。
  • (御子)35節。同時にイエスは涙を流された。死の支配に屈し、悲しみ嘆く人たちに対する憐れみの涙を流される方である。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様は涙を流されました。何の涙かなと思いましたが、死の支配の中にいる人々に対する憐れみの涙だと思いました。私も幼い頃から自分の死を知り恐れを抱き、死の支配の中に生きてきました。この支配からどのように脱出できるのか、本を読んだりしましたが解決には至りませんでした。
  • 教会に誘ってくださる方がいて、私は信仰を得、そして死の支配から脱出することができ、自由にされました。本当に感謝でありがたいことでした。
  • イエス様は死の支配の中にいる人たちに対して涙を流されました。やがて十字の上で亡くなられ、三日目に復活なさり、死に対する勝利を明らかにされました。この救いを多くの人たちに伝えたいです。・・・イースタをめぐる黙想をブログに書く、というのはどうでしょうか。私は福音の証人として生きるべく、ブログを活用しています。神さま導いてください。今日はイースタをめぐる黙想集があれば、参考になるのではないかと思います。今日は書棚にある本の中からこれを探すこととします。
☆与えられた導き
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