ヨハネ福音書 12章20~26節

2019年12月13日

(内容)

  • イエスはよく知られた有名な言葉を語られる。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。

(黙想)

  • 礼拝するためにエルサレムに来たギリシャ人たちがイエスに会いたいと弟子のフィリポに伝えた。フィリポはアンデレと一緒にイエスのもとに行き、その旨を話した。しかしイエスの言葉は、ギリシャ人の願いに応答する言葉ではなかった。「人の子が栄光を受ける時が来た」とイエスは言われた。死は目の前に迫っており、ギリシャ人たちに会うことは考えられないのかも知れない。
  • 「人の子が栄光を受ける時が来た」。13章1節にこう書かれている。「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り」。イエスが栄光を受ける時とは、この世を去り、父のもとに行く時のことである。それは十字架の上で亡くなり、天の父のもとに帰る時である。天の父のもとに帰る、そこにイエスの栄光がある、ということになる。
  • 一粒の麦は、地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ。これはたとえである。イエスは自分の死が多くの実を結ぶことを語る。イエスの死がなぜ、多くの実を結ぶことになるのか、それはここには書かれていない。イエスの十字架の死は罪の贖いのための死であるという考えはヨハネにはない。イエスの死がなぜ、多くの実を結ぶことになるのか。イエスを信じる者は永遠の命を与えられるのであり、イエスを信じる多くの人たちが永遠の命を得る、これは多くの実を結ぶことになるといえる。
  • 羊飼いのたとえ、ぶどうの木のたとえが語ることは、イエスを信じる者は、イエスと一つになるのであり、そのことが人を生かすということ。永遠の命を得て生きるということ。イエスは死ななければ、信じる者たちと一つにはなれない。
  • 「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」。これはイエスと私たちが一つになることを意味している。
  • イエスのいるところに私たちがいることになるのであって、私たちのいるところにイエスが来るわけではない。自分の命を愛するとは、自分のいるところにイエスに来てもらうことであり、イエスに自分に仕えてもらうことである。自分の命を憎む者とは、イエスのいるところに行くことであり、自分がイエスに仕えることである。自分のための信仰と神のための信仰。神さまに自分に仕えてもらうのか、自分が神さまに仕えるのか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • (御子)イエスは自分の死が多くの実を結ぶと信じている。
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)イエスに仕え、イエスに従う者は、イエスのいるところにいることになる。
  • (約束)イエスに仕える者を神は大切にしてくださる。
  • (警告)自分の命を愛すること。それは結果的に命を失うことになる。自分の命を愛すること、つまり自分のために生きることを捨て、イエスに仕える、つまり自分の命を憎む時、人はイエスのいるところにいて、父なる神に大切にされ、真に生きることができる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、ヨハネ福音書では、イエス様の死は、地上の歩みを終えて天の父なる神のもとに帰るきっかけに過ぎないように思えます。
  • イエス様に仕え、イエス様に従う人はイエス様のいるところにいると教えられました。イエス様と一つになって生きる、それがイエス様を信じる歩みであると教えられます。
  • 言が肉となられたのがイエス様です。ですから神さまの言葉に親しみ、神さまの言葉を大切にして生きることが、イエス様と一つとなって生きることと私は考えてきましたし、またそうしてきました。しかし言葉を大切にする中でイエス様という人格を持った方が遠のいて行かれるような印象もあります。
  • 羊が羊飼いについて行くように、イエス様を身近に感じたく思います。聖書を読み、思いめぐらし、色々考えたりしていますが、あなたではなく、イエス様に語りかける思いが少ないのでしょうか。単純にイエス様に心の中にある思いをイエスに注ぎだしてもいいのかもしれませんね。
  • 今自分が生きているこの国の状況、伝道が進展しない状況、信仰生活をしている信徒の姿、心の中にわだかまっている思いをイエス様に吐き出してみたくなりました。イエス様のいるところに私もいるなら、そうしていいですね。時間をとってイエス様に思いを注ぎだしてみます。
☆与えられた導き
  • 自分の思いをイエス様に吐き出す

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