第一コリント 15章20~28節(1) 世の終わりの到来

2021年4月28日

(内容)

  • キリストが来られる時、つまり再臨されたとき、キリストに属している者たちが復活し、世の終わりが来る。

(黙想)

  • パウロは、死者の復活などないと語る人たちに対して、反論をした。そして実際キリストは死者の中から復活したと主張し、キリストの復活は死者の復活の初穂という。さらに復活には順序があると語る。最初にキリスト。これは2千年前に起きた。そしてキリストが来られるときに、キリストに属している者たちが復活し、次いで世の終わりが来ると語る。
  • またアダムによってすべての人が死ぬようになり、キリストによってすべての人が生かされるようになったと語る。これは非常に重要な神学的説明である。ロマ書の五章に通じる。
  • 世の終わりが来る、この言葉に注目しよう。現代のキリスト者は世の終わりが来ることをどれほど信じているのだろうか。礼拝で使徒信条を告白している。その中で「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白する。僕は世の終わりが来ることを否定はしない。僕はこれを告白する。疑うわけではないが、リアリティーをもって信じられるかというと、そうでもない。終末の事柄をどう信じるかは課題である。
  • しかし先日マタイ28章のデボーションで、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とのイエスの言葉を読んだ。もし一切の権能を持つイエスを信じるなら、終末の事柄を信じるべきだろう。どうしたら僕が信じることができるようになるのかではなく、なぜ信じないのか、これが問いとなる。自分の理性をイエスの権能より上におくなら、どうしたら信じることができるのかが問いとなる。しかしイエスの権能を自分の理性より上におけば、なぜ信じないのかとなる。つまりそこでは、自分の理性が信じられないから信じないという事実が明らかにされる。ここに理性をイエスの権能の上に置く罪が明らかにされる。これを罪と認め、告白することが大切となる。
  • 「世の終わりが来る」。これは受けとめるのに注意しなければならない。もうすぐ世の終わりの時が来ると説き、人々を惑わす人が時々現れる。イエスは、終わりの時がいつ来るか、それは神が定めることであり、私たちが知るべきことではないと教えた。聖書は、世の終わりに備えて目を覚まして生きることを教えている。なぜ世の終わりに備えるのか。それは神の裁きが行われるからであり、救いが完成するからである。
  • 世の終わりを信じるとは、終わりの日において、救いが完成することを信じることにつながる。また神の裁きが行われることを信じる。聖書は、人は死んだら皆天国に行くとは教えない。人が与えられた人生でいかに生きたのか、神の前に申し開きをすると聖書は教える。
  • 聖書から僕は、終末の日が到来すると「考えて」、その備えをして生きることが大切と学んでいる。真剣に備えて生きる、それが天と地の一切の権威を持つイエスを信じることになるのではないか。僕の気持ちを整理したいと思う。
  1. 終末の到来は信じることができるかどうか、という問いを立ててはいけない。信じたいと思う時、神の導きを願う。それは信じることができるようになるために、しるしを求めることになるのではないか。あなたがメシアであることを信じるために、どんなしるしを見せてくださいますかとイエスに語った律法学者やファリサイ派と人たちと同じになってしまう。
  2. イエスは天と地の一切の権威を持つ方である。そのイエスが終末の到来に語っている。だから信じるか否か、僕が問われている。
  3. 終末の到来を信じる。到来すると考える。
  4. 終末の到来に備えて生きる。
  • パウロはキリストに属する者が復活すると語る。キリストに属さない者、キリストを信じない者は世の終わりが来たらどうなるのかは語らない。「正しくない者が網の国を受け継げないことを知らないのですか」(コリント一6:9)と語っている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御子>十字架の死から復活した方。
  • <御子>今一度、この世界に来られる方
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>キリストが再臨されたら、キリストに属する者は復活する。
  • <教え>世の終わりが来る。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書箇所で「世の終わりが来ます」とあります。これを正しく受けとめたいと思いました。どう受けとめるか、折に触れて考えてきましたが、今日は、自分の受けとめ方がはっきりしたと思います。どうしたら自分が信じることができるのかではなく、なぜ信じることができないのか、との問いが大切と知りました。そして自分の理性をあなたよりも上に置く罪を悔い改めることの必要を確認しました。このことは以前から気づいていることです。
  • そして終末の到来を真理として受け入れ、真理と考え、それに備える歩みをしたいと思いました。気持ちをたしかにするために、悔い改めと自分がどうするかを文章にまとめます。導いてください。
☆与えられた導き
  • 悔い改めの祈りをする。
  • 世の終わりに備える自分の歩みを文にまとめ、確認する。

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天の父なる神さま、終末の事柄をどうしたら信じることができるのか、と悩み、信じさせてくださいと祈りもしました。私の心に自分の理性が信じることができないものをどうしたら信じることができるのか、という問いがいつも頭にありました。聖書は神の言葉です。聖書の語ことを素直に信じようとしないで、信じることができるために、あなたに何かして欲しいと考えることもありました。自分の理性を、私は神としていたことを思います。聖書が語ることを素直に信じようとしないのは頑なさであり、理性を通して肉が働いていたことを思います。神さま、赦してください。天と地の一切の権威を授かったイエスのお言葉を素直に信じる者としてください。まずはイエスの語ったことを真理と考えて生きていきます。終末の事柄も真理と考え。生きていきます。導いてください。
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世の終わりに備える

  • イエス様はたとえで世の終わりに備えるべきことを教えられた。たとえば、自分に与えられた賜物を十分に用いること。
  • 僕にとって世の終わりに備えるとは、特別なことをすることではなく、むしろ今までの生き方を継続することである。
  • キリスト者として生きることは、キリストに似た者となることを目指す生き方であり、そのように努力している。終末が到来するとキリスト者は、キリストの栄光の体と同じ体に自分が変えられる(フィリピ3:20)。だからそのように変えられることに違和感がないように、今、キリストに似た者となることを僕は目指している。
  • そのような歩みをしているなら、素直に世の終わりの到来を信じていますと告白してよいのではないか。
  • 終末の事柄を自分は本当に信じているのだろうか、というような問いを立てなくてもよい。そのような問いを立てるから、自分は本当に信じているのだろうか、と余計なことを考える。
  • 少なくとも自分がキリストに似た者を目指す歩みをしているなら、それは終末に備えての歩みをしていることになる。終末の事柄を自分は信じているといってよいのではないか。

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