2021年12月6日
(内容)
- 初めに言があった。
(黙想)
- ヨハネはなぜ、このような文章を書いたのか。なぜ、このような文章を書けたのか。「初め」とは世界の初めのことである。科学でもこの世界、宇宙に始まりがあることを認めている。なぜ初めがあるのか、どうして今のようになったのか、科学者は科学者で研究をしている。
- 聖書は科学の本ではない。聖書はこの世界が神の御心によって存在していることを伝える。創世記の最初に創造の次第が書かれているが、それを見た人は誰もいない。ある意味、人間が想像して書いたものである。創作である。世界が神の意志によって存在していることをあのような形で表現していると言える。いわば信仰の表現、信仰の告白である。
- そこに「言」を用いていることに特徴がある。創世記には、神が言葉を発してこの世界を創造したことが書かれている。神の意志が言葉となり、それが出来事を起こしている。ヨハネは言葉というものに特別なものを見ているにちがいない。我々の生活では、言葉は意思疎通の手段である。言葉なしには十分な意思疎通はできない。言によって意思を伝え、物事が実現していくようにすることもできる。組織などで上司が命令すれば部下はそれを実行する。言葉は出来事を引き起こすという面を持つ。
- 言は神と共にあったとあるので、言葉は神と密接なものであることが分かる。世の人々が神と崇める偶像は何もしゃべらない。人間との関わりを持つことはない。ヨハネは、神が人間と関わりを持つ存在であることを証言するために初めに言があったと書いたのではないか。創世記で、神が人をご自身に似せて造られたことも、神が人間と関わりを持つ存在であることを示している。神が人間と関わりを持つとき、それは遊びではない。神は真剣な関わりを持とうとする。だから神は愛であると言われる。神は愛だから、人間と関わりを持とうとされるのである。
- ヨハネにとって見逃すことができないことは、イエスという人間がおり、活動し、十字架で死に、復活したことである。このイエスは死者を復活させ、盲人の目を開くなど普通の人ではない。なぜこのような人物が登場したのか。そこに神の意図があるなら、それは何か。それはイエスが語ったこと、イエスが行ったこと、そしてイエスの死と復活の意味を見出すことが大切である。それらを踏まえて「初めに言があった」とヨハネは書く。この一言でヨハネはまず、神がいかなる方であるかを書き、さらには人となった神、キリストが世の初めに神と共にいたことを伝えようとしている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>神は人間と関わりを持つ方。それが神の本質である。神は愛なり。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>神との交わりに生きることを大切にする。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができて感謝です。特に1節は良く知られた言葉であり、これを黙想できて感謝です。あなたは愛の神であり、私たちと関わりを持つ方であることを確認しました。今日はいつも以上にあなたを意識して祈りたいと思います。あなたが私に祈りに耳を傾けてくださっていることを意識して祈ります。
☆与えられた導き
- 信仰は神との交わりであり、このことを意識して祈る。