2023年8月12日
(内容)
- 私たちはキリストと共に死んだので、キリストと共に生きると信じる。
(黙想)
- キリスト者が新しく生まれ変わった存在であることは聖書の中で繰り返し語られています。
ヨハネ 3:5
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
- ここには霊によって、聖霊によって生まれ変わるのが神の国に入る人、つまりキリスト者であると言われている。
コリント二 5:17
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。コロサイ 2:12
洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。ガラテヤ 6:15
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
- 聖書はキリスト者が新しく生きる者となったことを告げる。別な言葉で言うと、キリスト者は神の子とされたのである。
ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
- キリスト者とは、自分が神の子とされ、新しい人間にされたものであることを信じて生きる人である。
- しかし、自分が新しく生まれたなんて実感できないと考え、信じない人がいる。そもそも私たちは実感できるから信じるのではない。神を信じる時、神を実感したから信じたのか。多くの人は実感して信じたのではないと推測する。つまり神を信じる歩みを始めることにしたのである。信仰生活の中で、神は本当にいるんだな、と思うこと、経験することがある。しかし神を信じるのは実感に基づいてではない。
- それと同じように、新しく生まれたことは信じるものである。もし実感できないから信じられないというのなら、神を信じたのは、実感したから信じたのか、そして日々神の存在を実感しているから神を信じているのか問うとよい。神を信じるのは実感でないのに神を信じているなら、自分が新しく生まれたことを信じるべきである。それが一貫した信仰である。
- 自分が新しく生まれた存在、神の子であると信じることにしたら次に問うべきことがある。それは新しく生まれた人として生きていきたいかどうかである。新しく生まれた人として生きていこうとする時、聖霊の導き、助けが与えられる。言い換えると聖霊の助け、導きを祈り求める必要がある。つまり自分の力と努力だけでは、新しい人として生きていくことはできない。それを妨げるものがあるからである。キリスト者とは、新しく生まれた人として生きることを志す人のことである。
- キリスト者は洗礼を受けキリストに結ばれた。キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生かされる者となった。この時、古い自分は死んだ。罪のからだは無力化された。このことを信じるのが、新しい人である。その人はどのように生きるのか。
エフェソ 4:22~24
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけて生きることが勧められる。
エフェソ 4:31~32
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
- この聖句は、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけることを具体的に語っている。自分はどのような生き方をしたのか、問われる。中途半端なキリスト者となるのか、キリスト者として一貫した歩みをするキリスト者になるのか。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>キリストと共に生きることを信じ、そのように生きる。新しい人として生きること。
(与えられた導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書にあるように、私は新しく生まれた者として今日まで生きてきました。キリスト者になってよかったと思います、本当に感謝です。自分がキリスト者として新しく生まれたことを信じないで、キリスト者として努力して生きている人が多いことを思います。その人たちは、キリスト者としての自分の歩みがうまく行っていないことを感じていると思います。
- その意味で、新しく生まれていることを伝えたいと思います。ブログの課題とします。また私が聖書だけを引用して書いているので教理的に不十分だと指摘する人がいると思われるので、近藤勝彦著『キリスト教教義学』で私の足りないところがあれば、学びたいと思います。
☆与えられた導き
- ブログに書けるよう準備する。
- 教義学の本を読む。