2023年8月9日
(内容)
- イエスは「あなたがたは世の光である」と言われた。
(黙想)
- あなたがたは世の光であるという。私は世の光だという。自分のどこが世の光なのかと誰がも考えるのではないか。キリストを信じる信仰者にはなった。世の光と呼ばれるほどの者になったとは思えない。世の人たちは世の光ではない。私が世の光であるとするなら、世の光になれた理由は、自分が生まれつきもっているものには基づかない。生まれつき持っているものに関連するなら、世の人々にも世の光となる人がいてよいことになる。
- 自分が世の光となっているとするなら、それは信仰と関連している。世の人々と自分の違いは、信仰を持つか持たないかである。信仰を持つことが世の光とつながるなら、それはどのようなつながりになるのか。
- 忘れてはならないのは、イエス自身が「わたしは世の光である」と言われたことである。世の光である点で、イエスと私は共通している。私は自分の力で、あるいは自分のもっているもので光になることはできない。でも光であると言われる。
- 洗礼を受けるとはイエス・キリストに結びつけられることであると聖書は言う。イエス・キリストと私の結びつきのゆえに私は光であると言われる。
- 私はイエスの父なる神を信じている。私はこの神との交わりの中に生きようとしている。神のみ心に従って歩もうとしている。御言葉によって歩もうとしている。このようなキリスト者の歩みをしているキリスト者を世の光と言っているのか。
- イエスが登場した時、マタイは次のように述べている。
マタイ 4:15~16
「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。
- 暗闇に住む民は、イエスという光を見た。イエスという光が暗闇に射し込んだ。
- 暗闇の中にいると、自分はどちらに進んでいいかわからない。どちらに進んでいるかもわからない。光が射し込み、明るくなれば、どちらに自分は行くべきかが分かる。どちらに進んでいるかが分かる。暗闇の中にいる人は、自分では自分がよしとする方向に向かって進んでいると思っていても、実際は、迷いの中にいると言ってよい。自分の歩みを検証できないから。
- キリスト者は神のみ心に従って歩んでいる。世の人々とキリスト者の歩みは異なる。この違いは、世の人々の歩みがどんな歩みであるかを照らし出す。
- キリスト者は罪を知っている。罪の中を歩んでいた歩みをやめて、御心従う歩みを始めている。世の人々は、自分の思い、自分の考えに従って生きている。キリスト者の歩みと自分の歩みが違うことが分かる。世の人々がキリスト者の歩みと違いに気づくような歩みをすることがキリスト者には大切である。それが世の光としてのキリスト者の姿ではないか。
- とすれば、キリスト者として信仰に生きること、御言葉に生きることが大切となる。
詩編 119:105
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
- 御言葉に生きることが世の光となることと言ってよいのではないか。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>私は世の光である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、主イエスは私は世の光であると教えられました。私の中に世の光となるものがあるわけではなく、イエス・キリストを信じキリスト者にされたので光とされたと受けとめます。キリスト者は世の人と違い、あなたを信じ、あなたのみ言葉によって生きようとし、あなたとの交わりに生きようとします。ここにキリスト者が光であり、光となる要素があると思います。それゆえ、御言葉に生きることを貫きたいと思います。
- み言葉に生かされている自分を見て、自分とは違うなと人に思ってもらえるにはどうしたらよいのかと考えます。一緒に過ごす時間が長い人には、ありのままの姿を見せればよいかもしれません。定期的に会える人であれば、会話をすることが大切となりますね。
- Yさんと言葉を交わすことを覚え、合唱団のコンサートの目録にあった、合唱曲をyoutubeで見て感想を話すことができればと思いました。そうしたいと思います。
☆与えられた導き
- youtubeで合唱曲の演奏を見る。