2018年1月20日
(内容)
旧約時代には、祭司制度があり、律法に基づいて神へのいけにえが献げられていました。罪に贖いのためのいけにえも献げられていました。キリストは十字架の上でご自身の命を犠牲にしましたが、それはキリストが大祭司として天の聖所でご自身を罪の贖いのためのいけにえとして献げたことと見做されます。
(黙想)
- 旧約時代の律法に基づいて献げられたいけにえとキリストご自身といういけにえの違いが語られています。
- 前者は礼拝する者の良心を完全にすることができません(9節)。後者は、私たちの良心を死んだわざから清めていける神を礼拝させます(14節)。さらにキリストがご自身をいけにえとしてささげたのは「罪を取り去るため」とあります(26節)。
- 「罪を取り去る」とは、罪を無力化、消滅させることです。私たちは罪の支配下に置かれていましたが、その支配力がキリストによって無力化されたということです。私たちは罪に勝利することができるようになったことを意味します。それは、私たちが自動的に罪に打ち勝ち罪を犯さなくなるという意味ではありません。罪の支配力がキリストによって砕かれたのです。この手紙の著者は、罪に対してどう対処するか語っています。
- 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」(12:1)。あるいは「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(12:4)。罪を捨てる、罪と戦うとあります。神さまの助けを得て、これが可能となります。
- 私たちが犯す罪は具体的です。その個々の罪に対して、私たちは勝利し、罪から清められます。キリストによる救いの恵みです。キリスト者の生涯は、罪との戦いという側面を持ちます。同時に罪から清められる聖化という面を持ちます。罪との戦いには神の力の助けは欠かすことはできません。祈りが伴う戦いとなりますが、勝利が約束されます。
- 「私たちの良心を完全にする」とは、私たちの心が罪の支配下から、神の御支配の下に移されたことを意味すると解釈します。
- これまで複数の教会の礼拝で奉仕をしてきました。地区での交換講壇、無牧の教会の応援など。多くの場合、教会の長老あるいは役員が司式をし、祈りをささげます。司式者の祈りは、賛美、感謝、悔い改め、祈願、執り成しを祈ることが基準とされています。これらの祈りをずっと聞いてきましたが、そこで感じることは、悔い改めの祈りはなされているのですが、罪にはなかなか勝利できず、今週もまた罪を犯してきた、という祈りが多いことを思います。でも罪の赦しの恵みにあずかることができ感謝ですと祈られます。罪と戦って大変だったが神さまの助けを得て打ち勝つことができ感謝ですといった感謝の祈りはほとんど聞くことができませんでした。救いの恵みとは何なのか、ということを考える時、救いの恵みが罪の赦しに限定されていると感じてしまいます。求道者の人が司式者の祈りを聞くと、クリスチャンになったらああいう懺悔の祈りをするのか、と思い、信仰者になることにためらいを感じるのではないかと思ったりします。
- 福音理解が十分ではない、これは伝道にとって大きな壁であると感じてきました。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)14節。御子の血は、私たちの良心を死んだわざから清め、生ける神を礼拝させます。私たちを罪に勝たせてくださる生ける神を礼拝させるように導きます。
- (御子)15節。新しい契約の仲介者です。
- (御子)26節。御子は罪を取り去るために現れ、ご自身をいけにえとして献げられました。
☆神が求める私たちの生き方
- (約束)御子により罪は取り去られました。罪の支配力は砕かれました。罪に打ち勝つことができるという約束がここにあります。この約束を信じることが大切です。信仰者の実感からすれば、信じがたいかもしれませんが、信仰はキリストの言葉を聞くことから始まります。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父よ、キリストの贖いの恵みは罪の赦しだけではありません。罪の支配を打ち砕かれました。このことがもっと宣べ伝えられ、信じられ、罪に勝利する恵みを感謝する祈りが教会に満ちあふれることを願います。
- 私は牧師職を引退し、教会ので説教の務めから離れました。私にできることは多くはありません。キリストの贖いの恵みが、もっと宣べ伝えられ、信じられ、罪に勝利する恵みを感謝する祈りが諸教会に満ちあふれるように祈り続けたいと思います。まずは今日から一年祈ることとします。
☆与えられた導き
- 上に書いた祈りを祈りのノートに書き留め、祈る。