列王記上19章

2017年6月17日

(内容) 略

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • 神さまは、気落ちし、落胆している人を励ますお方です。神さまは、自分の命が絶えるのを願っているエリヤに御使いを通して、ご自分のもとに導き、声をかけられます。静かにささやく声をもって声をかけられます。
  • 神さまは私たちに、「○○よ、ここで何をしているのか」と問いかけるお方です。私たちの歩みが、今のままでいいのか、吟味を迫るお方です。
  • 神さまは、神さまを畏れ敬う者を七千人も残しておかれる方です。神さまに仕える私たちは、決して孤立せず、孤独でなく、同志がいるということです。
  • 神さまは、人目を惹くような出来事の中ではなく、静かにささやく声の中に臨在されるお方です。私たちが聖書を読むとき、私たちは神さまの前にいるのです。
☆神が求める私たちの生き方
  • エリヤは絶望感、孤立感、無力感にとらわれていました。しかし神さまはご自身を現し、励まされます。私たちがどのような状況にあっても、神さまは聖書を通して、私たちに出会い、私たちを導かれるお方です。
  • 人の歩みは習慣による繰り返し的な面が多いものです。「あなたはここで何をしているのか」と神さまは私たちに問いかけ、私たちの歩みを吟味するよう呼びかけ、私たちの歩みを導こうとされています。聖書を読むとき、読む前と後で、私たちの内に何の変化もないとしたら、神さまの呼びかけがなかったことになってしまいます。エリヤはそうでした。今日、「ここで何をしているのか」との神の声を聞いたのなら、私たちには、何か改めること、神さまが期待する新しい歩みが用意されています。
  • 神さまは、静かにささやき、私たちに語られます。私たちの場合、聖書を通して、神さまは語りかけられます。聖書に向かうなら、私たちは神さまの前にいるのであり、神さまは聖書を通して語りかけてくださいます。いつも、そして今日も神さまに聞いて歩みます。

(与えられた導き)

☆黙想
  • 「あなたはここで何をしているのか」との神さまの声を聞きました。私はここで何をしているのか。今私たち夫婦は、奈良に転居し、娘の家庭に仕えています。娘は双子を出産し、まもなく退院します。育児はこれからがいよいよ本番となります。今朝、散歩しているとき、あることを忘れていることに気づかされました。それは神の国を思うことです。神の国に関する聖書の言葉を黙想することです。今、説教を依頼されるときには、神の国を主題とする説教をしたいと考えています。「晩年とは死とむきあう年である」(松田道雄)。死と向き合う者として聖書を思いめぐらすことが、おろそかになっていました。来月説教奉仕の機会を与えられていて、聖書テキストも決めてあるので、黙想を深めることにします。
  • エリヤは、絶望感、孤立感、無力感に囚われています。福音を宣べ伝える者も同じです。家族に伝道しようと思っても、思うように行きません。もう無理だとの絶望感を味わい、伝道できない自分の無力さを感じ、家族の中で孤立感を感じたりします。かつて日曜日礼拝を終えて繁華街に出かけたとき、人々は、福音なんかなくても私たちは生きていけると言っているようで空しさを感じたこともあります。教会の現実を見て、落胆することもあります。自分の命の絶えることを願ったエリヤに神さまは、声をかけられました。神さまは、聖書の言葉を通して、私たちを励まします。
  • 私は一種の危機感を持っています。教会は今のままでよいのだろうか、との危機感。どうなったらいいのか、という目標もあります。しかしこの危機感を克服するために自分に何ができるのかと考えると無力感、絶望感に襲われます。孤立感も。エリヤは年をとっていたと思います。だから自分の命が絶えることを願いました。でも、私には伝えたいことがあるし、この危機感を見過ごしにはできないという思いがあります。神さまはエリヤをご自分のもとに招き、ご自身を現されました。神さまは、聖書を通して、み心を現し、励ましてくださいます。危機感を有するのは、私一人ではなく、七千人を残す、と神さまはおっしゃいます。目には見えませんが、私は孤立していない、との励ましを受けます。
☆与えられた導き
  • -フィリピの信徒への手紙3章を思いめぐらす。
  • 新しいサイトの構成について、模造紙に書き、壁に貼る。

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