ローマ 4章9~12節 信仰によって義とされる

2022年12月8日

(内容)

  • 信仰によって義とされるのは、割礼の有無には関係がないことを告げる。アブラハムの信仰に倣う者は皆、義とされる。

(黙想)

  • パウロは、なおも信仰によって義とされることについて語る。それはユダヤ人を意識してのことと思われる。ユダヤ人にとって割礼はとても大切な事柄である。割礼を受けていることはユダヤ人のアイデンティティであり、神の民のしるしである。
  • 信仰によって義とされるとのパウロの主張は、割礼を軽視しているように見える。そこでパウロはていねいに説明している。アブラハムはいつ割礼を受けたのか。アブラハムはいつ、その信仰が義と認められたのか。彼は割礼を受ける前に義とされている。彼の信仰を神が義と認めている。まだ割礼というものが存在していないときに、アブラハムは義とされている。アブラハムは信仰の模範として立っている。
  • 割礼を重視してきたユダヤ人はパウロの考えに敵対する。だからパウロはユダヤ人たちから迫害を受けた。ガラテヤ教会では、割礼の必要を説くユダヤ人キリスト者の教師が現れ、教会は混乱した。
  • この段落では、アブラハムが義とされたとき、まだ割礼は受けていなかったことを語る。割礼がある者もない者も、信仰によって義とされる。
  • 信仰についてアブラハムの模範に倣うとある。アブラハムは、神の言葉、神の約束の言葉を信じたのである。神を信頼できる方としたのであり、神を信用したのである。信仰は神を信用することである。神を信用することが信仰の本質のように思える。
  • 信仰の重み、深みを理解したいと思う。信仰をどう理解するのか、信仰とは何か。信仰論。
    ユダヤ人にとっては、割礼とは何なのか。問いが残る。もう必要のない無用のものなのか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>アブラハムの信仰を義とする方。
  • <御父>かつてアブラハムに割礼を命じた方。
  • <御父>アブラハムの信仰に倣う者を義とする方
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>信仰によって義とされる。割礼を受けた者も割礼を受けていない者も共に信仰によって義とされる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書を読み、あらためて信仰とは何かを考えさせられました。信仰には奥行き、深みがあります。主イエスによって罪が赦されると信じる、これは信仰の入り口に当たります。信仰の出発点がここにあると言えます。信仰は神を信頼し、神の言葉、神の約束に信頼することであり、神の戒めを恵みとして受け取り、これに従いますし、終末の到来を信じ、これに備えることもします。罪からの解放も目指します。
  • 信仰の奥行き、深みを語る言葉がほしいです。今日は、信仰について、思いめぐらしたいと思いました。本棚にある信仰論について語る本をチェックして読みたいと思います。
☆与えられた導き
  • 信仰論について語る本のチェック

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