ローマ 5章3~5節 神の愛

2023年2月2日

(内容)

  • 神との間に平和を得た人は、苦難をも誇る。なぜなら、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを知っているからとある。

(黙想)

  • 信仰によって義とされたものは神との間に平和を得る。この平和は恵みである。この恵みに導き入れられた者は、苦難を誇ることさえするという。義とされることの恵みに豊かさのあることがわかる。キリストの十字架の死が私たちにもたらすものは罪の赦しであると狭く解釈してはならないことを思う。義とされることがいかに豊かな内容を持っているのか、そのことは苦難を誇るという言葉で示唆されている。
  • パウロはキリストを宣べ伝える働きに召された。それは苦難に満ちたものであった。苦難があるからといってパウロはその働きをやめることはなかった。むしろ苦難を誇ると語るのである。なぜそのように語ることができるのか。
  • 神との間の平和の中に生きているので、使命を果たすときに苦難があっても、苦難は使命を果たすことの邪魔にはならなかった。それどころか、苦難は忍耐、練達、希望を与える恵みの機会でもあった。それゆえパウロは苦難を誇ることができた。
  • 神との間の平和とは何かを思う。人は罪を犯し、神の怒りを受けるべき者であった。人は神の怒りの対象であった。それなのになぜ神は人との間に平和を築こうとしたのか。この神の意志がなければ、神と人との間の平和は生まれない。
  • 平和を築くためには、怒りが解決しなければならない。そのために神は、御子をなだめの供え物として世に送り、罪の贖いとした。御子が人の罪を背負い、人が受けるべき怒りを御子に負わせた。御子が人の代わりに神の怒りを受けたので、御子を信じる者は神の怒りを受けない。神は御子を通して罪に対する怒りを解決した。
  • 神はなぜそのようなことをしたのか。なぜ、御子を世に送られたのか。それは神が人を愛しているからである。御子を送ってまで、人との交わりを神は願っている。つまり神は人を愛している。神が人との間の平和を願い、神との交わりに人を招いた。この神の愛のゆえに、神との平和が実現した。
  • 人間からすれば、人は神の怒りを受けるべき者である。罪のゆえに神を恐れて生きている。神との間に平和の関係を築くことはできない。神の教えを完全に守ることはできず、神に祝福を祈り求めてもかなえられるとの保証はない。罪のゆえに、神の怒りを受けるべき者であるから。しかし神の側から、罪の贖いのために御子を差し出し、御子を信じる者を義とするとの神の御心が示された。人は御子を信じ、義とされ、神との間の平和に生きる恵みを与えられた。
  • 人は神に愛されている。神は不信心な者を義とする方である(4:5)。人は神との間に平和を与えられ、神との交わりに生きるように召された。神との交わりに生きる、それが人の人生を導く土台となった。神との交わりに生きる時、人は神を証しする歩みをすることになる。神との交わりに生きるなら、自然とその歩みは証しとなる。
  • パウロは使徒に召され、キリストを宣べ伝えることを使命とした。宣教の業に励むとき、何が起ころうと神の導きのもとに置かれている。苦難は否定すべきものではない。苦難は、忍耐、練達、希望を生み出す恵みであった。
  • 神との間に平和を得るとは、神との交わりに招かれ、神との交わりに生きる者となることを意味する。さらに言えば、神との交わりに生きることができるように神はキリスト者を導く。
  • 人には肉の性質があり、神の御心を憎む思いがある。この思いがある限り、キリスト者の心には、神のみ心に従う思いと逆らう思いとの戦いがある。神が人を義とするとき、神は人がこの戦いに勝利できるものとした。それゆえ人は神との交わりに生きることができる。神の御心に生きることを喜びとし、幸いとすることができる。
  • 神の愛は、人の罪を赦すだけではなく、罪からの解放、罪に打ち勝たせることを含む。それによって神との交わりが可能となる。なぜ神は人との交わりを願うのか。それは神が人を愛しているからである。
  • 人はなぜ、神との交わりを願うのか。それが人として真のあり方であるから。創造主を信じ、その御心に生きることが真の生き方であり、神の栄光を現すことにつながる。
  • 苦難の中にいるとき、人は希望を抱く。希望は決して人を欺かないとある。人は神の御心に生きようとする、生きている。そして神ご自身が希望を実現へと導かれる。だから欺かれることはない。神への信頼がある。
  • 聖霊によって神の愛が注がれているという。この神の愛はどういう意味なのか。自分が神に愛されているという思いが心にあふれるということか。それとも神を愛する思いが与えられているということか。ここでは、自分が神に愛されているとの思いが心に溢れることを意味すると理解する。神が私を愛してくださっているとの思い、確信があるのだ。神は自分を愛しておられる。だから、神が与えてくれる希望は、自分を欺くことはないと信じることができる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>不信心な者をも愛し、ご自身との交わりに招く方。
  • <御父>不信心な者をも、ご自身との交わりに招く程に愛しておられる。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>苦難を誇ることができる。なぜなら、苦難は恵みであり、私たちのうちに、忍耐、練達、希望を与えるからである。
  • <教え>希望は決してわたしたちを欺くことがない。希望を与えるのは神であり、神は希望をかなえる方である。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日はあなたがどのように私たちに接してくださったのか、そしてそこにあなたの愛があることを心で確認しました。そして人の救いのために十字架の道を歩んだ、主イエスの愛も知ることができます。同時に、主と同じ歩みはできない自分を知ります。つまり主が自分の命を犠牲にしても人を愛したように私は人を愛することはできません。主は、私たちを愛してくださり、自分の命を献げてくださいました。あなたの愛を心から感謝します。
  • あなたが愛してくださっているとの確信は聖霊によると教えられます。パウロはあなたに愛されていることを確信し、使命に歩み、苦難さえ誇ることができましたし、苦難を誇ると語ります。あなたから与えられた使命に生きることの大切さ、尊さを思います。
  • 今日は、あなたに愛されていることをしっかりと心に刻みます。あなたの愛をたたえて生きる者になります。今日は「わが主を十字架の」(And can it be that I should gain)であなたを賛美します。
  • また希望は欺くことはないとありました。このことも心に刻みます。悪魔は疑いを持ってきますが、信じる者として歩みます。この点については、希望に生きる者として、感謝の祈りをささげることにします。
☆与えられた導き
  • 賛美と感謝の祈りをささげる

 

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