2023年5月19日
(内容)
- パウロは人類をアダムに結ばれた人とイエス・キリストに結ばれた人との二つに分ける。キリストに結ばれることのすばらしさを語る。
(黙想)
- パウロは1章18節で、人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されると語った。神は人間の罪を裁かれることを語った。そのパウロは人間の救いを順序立てて語る。
- 1:18~3:20で異邦人の罪、ユダヤ人の罪を語りすべての人は罪を犯していること、罪の下にあることを語る。
- そして3:21以降で、人はイエス・キリストを信じることによって義とされることを語る。イエス・キリストを信じる人は罪を赦されるだけではなく、義とされるとパウロは語る。人はこれまでどれほどの罪を犯してきたとしてもイエス・キリストを信じる時、神から義とされる。それはそれまで犯した罪にも関わらず、キリストを信じた者は無罪判決を下されたとパウロは語る。4章は信じることについての説明がなされている。
- 5章に入ると、信仰によって義とされた者は、①神との間に平和を得ていること、②神の栄光にあずかる希望を与えられていること、③苦難をも誇りにしていると語る。
- さらにイエス・キリストを信じる者が罪を犯したとしても、罪に対する神の怒りから救われていることが語られる。信仰によって義とされた者の救いは確かであることが語られてきた。
- 5章の12節に入ると突然アダムが登場する。12~21節の段落はどのように位置づけられるのか。この段落ではアダムとキリストが対比されている。アダムは来るべき方を前もって表す者だという。
- この段落はどのような意味を持っているのか、ロマ書の流れの中でどのように位置づけられるのか。
- 「一人の人」という言葉がアダムに対して、またイエス・キリストについて言われる。この一人の人は多くの人に影響を与える。言い換えると全人類は、一人の人アダムにつながっていること。それゆえ、全人類は、罪によって死ぬ者となったこと、死によって支配される者となったことが語られる。対照的にキリストを信じる者は、キリストに結ばれ、義とされ、罪に対しては無罪判決を受け、罪に支配される者から、支配する者となり、命を得る者となったと語られる。
- 全人類はアダムに結ばれるのか、イエス・キリストに結ばれるのか、二つに分かれる。全人類は皆、最初はアダムに結ばれており、罪を犯し、死ぬ者となり、死に支配されるに至っている。
- しかしイエス・キリストを信じる者となる時、イエス・キリストに結ばれ、義とされ、無罪判決を受け、命を得る者となり、支配する者として生きるようになったことが語られる。
- これはこれまで語られてきたことの要約と言える。すべての人類は、アダムにつながる者として罪を犯している。このことは1:18~3:20で語られた。そしてイエス・キリストを信じる人はイエス・キリストに結ばれる人となる。6章以降は、イエス・キリストに結ばれた人のことが語られる。
- どのような視点で語られるのか。義とされることに関連して疑問があり、それに対して答えるのが6~7章と考えることができる。
- 罪を犯しても恵みによって義とされるなら、もっと罪を犯そうという不真面目な問いが生まれる。信仰による義認は罪を助長するのではないかとの疑問もある。さらに義とされてもキリスト者は罪を犯すという現実がある。罪を犯してもなお義とされ続けるのかという疑問もある。そこでパウロは、イエス・キリストに結ばれて生きるとはどういうことかを明らかにしていく。
- あらためて、福音を罪の赦しに限定して考えることの間違いを思う。信仰者になり、神の教えを聞き、自分の罪深さを思う、その時、罪の赦しを聞き、ああ、よかったと思い、そこでとどまる人が少なくない。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>パウロが語る罪からの救いについて、伝えたい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。今日読んだ箇所は、どのように位置づけしたらよいのかわからないでいましたが先達のロマ書の本を読み、教えられたことを感謝します。ロマ書は深いので、学びつつ黙想し、時間をかけて学ぶことができます。
- 牧師を引退しましたので、毎週説教することはなくなりましたが、今年は、無牧の教会のために説教する機会を与えられているので、罪からの救いについて語る機会が与えられています。
- 説教の準備の上に導きを与えてくださり、福音を伝えることができるように導いてください。ロマ書の学びをさらに導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。
☆与えられた導き
- ロマ書の学びを続ける