2025年5月19日
(内容)
- イスラエルは神の民と呼ばれるが、アブラハムの子孫というだけでは神の民とならない。神に選ばれた者が神の民となる。人は神の憐れみを受けて神の民とされる。
(黙想)
- 9~11章は、イエスを信じなかったイスラエルの民は、神に見捨てられたのかという問いを扱う。パウロは彼らの救いのためなら、自分がキリストから見放され、神に見捨てらてもよいとさえ語る。
- この段落では、血のつながりによるイスラエルの民と神に選ばれたイスラエルの民があり、この両者は区別されるという。神に選ばれたイスラエルの民は見捨てられていないとパウロは考えている。
- 神に選ばれていないイスラエルの民は、イエスを信じなければ救われない。それは異邦人も同じである。異邦人もイエスを信じれば救いに入れられるが、信じなければ滅びに入れられる。
- この段落は神の選びについて語る。神はまずアブラハムを選ばれた。アでもブラハムの子孫はすべてが神の民ではなかった。神の民となったのは約束の子イサクの子孫であり、イシュマエルとその子孫は、アブラハムの子孫ではあるが、神の民ではない。イサクとイシュマエルは、母が違う。またイサクの子には双子の子がいた。母が同じである。兄のエサウと弟ヤコブである。神はヤコブを選ばれた。
- 神はご自身の計画のために人を選ぶ。人が選ばれるのは、その人に選ばれる資格があるからではない。神が自由に人を選ばれるのである。そして選ばれる人は、神の計画に仕えることになる。自分の好きなように人生を生きるのではなく、神の計画に仕えるのである。神はご自身の計画のために、人を選ばれる。
- このような選びをする神に不義があるのかとパウロは問う。神に不義があるという批判はどこから生まれるのか。神の一方的な選びは不公平なのではないか、との思いから批判が生まれる。<誰にだって選ばれる権利、資格がある。それなのに一方的に決められる>というのは不公平だという理屈である。
- 「神に不義があるのか」という疑問に対して、「決してそうではない」とパウロは語る。パウロは、この疑問に対して直接答えることはしない。かえって、神は、「憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」神であると語る。神の計画の実現のために誰を選ぶのかは、神の自由であり、神の主権に属するとパウロは語る。
- 問題は神の計画である。旧約聖書を読むと、イスラエルの民は神の民に選ばれているのに、神の民らしく歩まない。神の計画に沿って歩んでいない。神に選ばれるとは、神の計画に仕えることである。もしなぜ私を選ばないのか、と神に文句を言うなら、神の計画に仕える気持ちがあることを宣言しなければならない。その場合、自分の生きたいように生きることはできないことを知らなければならない。
- 神に選ばれるとは、神の選びに応答して生きることを意味する。そのように生きるように召されたのである。自分の思い通りに生きるのではなく、神の召しに生きるのである。神の計画に生きるように選ばれたのである。
- 人間は、自分の生きたいように生きることを第一とするから、神に選ばれなくても文句を言わない。旧約聖書は、神の民に選ばれたイスラエルの民が偶像礼拝を行い、神の民にふさわしく歩んでいないことを物語っている。
- また神の選びは、憐れみによる選びであるという。どういうことか。人は、選ばれる資格があって選ばれたわけではない。神の憐れみ、恵みによって神の計画のために選ばれたのである。
- 大事なことは、神に選ばれたのなら、その選びにふさわしく生きることである。神の計画に仕えて生きることである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>神は憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむお方である。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>神の選びに感謝し、選びに応答して生きること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、私は信仰に導かれました。感謝です。あなたの計画のために選ばれたと知ります。それゆえ、真摯にあなたの選びに答えていきたいと思います。私の生涯は、あなたに選ばれ、あなたの計画に仕える生涯としてここまで生きてきたことを感謝したいと思います。自分の人生は悔いのない人生出会ったことを感謝したいと思います。
☆与えられた導き
- 感謝の祈りをする。