2025年2月20日
(内容)
- パウロには、同胞のイスラエルの民の救いを切に求める思いがあり、彼らがメシアを拒み、神に見捨てられた者となるのは、彼の心の痛みであり、深い悲しみであった。
(黙想)
- パウロは「キリストに結ばれた者として」、真実を語り、偽りを言わないと書く。パウロは自分のことを、キリストに結ばれた者としている。私たちは何者なのか。パウロは、神との関係の中で自分を考える。キリストに結ばれた者、それが自分だという。キリスト者のアイデンティティーがはっきりしている。
- パウロには深い悲しみがあるという。心には絶え間ない痛みがあるという。それは肉による同胞、イスラエルの民に関する。イスラエルの民は神に見捨てられているように見えるのである。彼らはイエスを十字架につけた。神が彼らのために送られた救い主、メシアを拒んだ。今や救いは異邦人に広っ上がっている。パウロはイスラエルの民の救いを切に願っている。
- イスラエルの民が救われるためには、自分がキリストから離され、神に見捨てられてもよいとさえ思っている。自分を犠牲にしても構わないほど、切にイスラエルの救いを願っていることが分かる。心の底から本当に願っていると語る。
- それは嘘、偽りではないし、中途半端な気持ではない。それは「私の良心も聖霊によって」証しをしているという。これは神を証人にして、自分の語ることが本当であると語っている。人は簡単に聖霊を証人に引き出すことはできないはずだ。
- 聖霊の証言ということでは8章17節にも似た発言がある。
- 「この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。パウロは聖霊が証言するのを聞くことができるのだろうか。僕には分からない信仰の高みにパウロ入るように思う。
- 彼らはイスラエルの民ですと誰が救われてほしいのかを明確にする。
- そしてイスラエルの民はどのような民であるかを語る。彼らは神に選ばれた民であり、神から賜物をいただいた民である。神の子としての身分、栄光契約、律法、礼拝、約束。彼らは特別な民なのである。キリストも彼らから出ている。
- その彼らが神からのメシアを信じないで、神に見捨てられているかのようである。何とか救われて欲しい、それがパウロの願いである。
- 使徒言行録、パウロの書簡を見ると、イスラエルの民はパウロを迫害しているのである。救いのみ手を伸ばすことができないのである。この箇所には「祈り」という言葉は出てこないが、切なる祈りをしていることが想像できる。
- ファリサイ派、律法学者たちのことを考えてみると、彼らはイエスを信じなかったし、イエスを十字架につけさえした。彼らは神を信じており、その信仰のゆえにイエスを迫害したのである。パウロ自身、会に対する熱心のゆえに、クリスチャンを迫害したのである。イスラエルの民は神を捨てたのではない。神を信じているつもりなのである。パウロは復活の主に出会い、キリスト者になった。イスラエルの民は神を信じることを拒んで、神に見捨てられる者となったのではない。神を信じているからこそ、キリストへの信仰へ導くのは、より困難となる。でもパウロはあきらめない。
- そのことをローマにいるキリスト者に伝える。何の意味があるのか。何の目的があるのか。
- キリスト者自身が信仰から落ちることへの警告の意味がある(11:22)。ユダヤ人はつまづいたとあるので、キリスト者もまた躓かぬよう気をつけなければならない。
- 神の救いの計画の深さ、神の知恵の素晴らしさがある(11:33)。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>神はイスラエルを神の民として選ばれた。
☆神が私たちに求める生き方
- <模範>パウロは同胞の救いのために心を痛めている。自分が救われたからそれでいいとは思わない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さまは、今日も聖書を読むことができ感謝です。
- パウロの深い悲しみ、心の痛みを知ります。自分が神に見捨てられても、同胞のイスラエルの民が救われることを願っています。パウロの愛に驚きを覚えます。私たちは自分の命を犠牲にしてまで人を救いたいとは願いません、しかしイエスは、自分の命を犠牲にして私を救ってくださいました。自分の命を犠牲にするのはいやだなんて迂闊なことは言えないと思いました。
- この時代に生きるキリスト者として、深い悲しみ、痛みはあります。この世界が罪に支配されていることです。この世界には罪が満ちています。自己中心が溢れています。そして犠牲になっている人たちがいます。福音の宣教を受けなければ生まれながらの人間は、自分が罪を犯す者、罪人であり、救いを必要とするものであることが分かりません。ですから教会はいつでも福音を宣べ伝えることが必要となります。キリスト教国家と言われるところでも、キリスト教的な生き方は文化として受け継がれたとしても、救いの必要は受け継がれません。
- この世界の罪に満ちた現実に圧倒される思いがあります。人間の歴史において、すべての時代が、罪に満ちているのかもしれません。現代は、見えない神を信じることは愚かなことと思われています。キリストによる救いが広く宣べ伝えられ、多くの人が信仰者となり、この世界が少しでもよい世界になることを願います。
- 他方、教会は、高齢化し集う人が少なく、存立の危機に置かれているという現実もあります。福音が広く宣べ伝えられ、信じる者が起こされることが必要です。
- この世界の人々が救われることが必要です。この世界の罪に支配されているかのような現実に、私は悲しみを覚えます。今の私にできることは祈りです。すべては神さまのご計画の中にあり、神さまの御支配があることを信じます。
- 福音が世界中に宣べ伝えられることを今日も祈ります。
☆与えられた導き
- 世界中に福音が宣べ伝えられるよう、今日も祈る。