ローマ 9章6~18節 憐れもうとする者を憐れむ神

2025年2月25日

(内容)

  • イスラエルは神の民と呼ばれるが、アブラハムの子孫というだけでは神の民とならない。神に選ばれた者が神の民となる。人は神の憐れみを受けて神の民とされる。

(黙想)

  • 9~11章は、イエスを信じなかったイスラエルの民は、神に見捨てられたのかという問いを扱う。パウロは彼らの救いのためなら、自分がキリストから見放され、神に見捨てらてもよいとさえ語る。この段落では、血のつながりによるイスラエルの民と神に選ばれたイスラエルの民があり、この両者は区別されるという。神に選ばれたイスラエルの民、神の民は見捨てられていない。神に選ばれていないイスラエルの民は、イエスを信じなければ救われない。神に選ばれたイスラエルの民は、後にイエスを信じるようになるという神の計画がある(11章)。
  • この段落では、神に選ばれたイスラエルの民がいることをパウロは語る。最初に神の選びについて語る。神はまずアブラハムを選ばれた。アブラハムの子孫はすべてが神の民ではなかった。神の民となったのは、約束の子イサクの子孫であり、イシュマエルとその子孫は、アブラハムの子孫ではあるが、神の民ではなかった。またイサクの子には双子の子がいた。兄のエサウと弟ヤコブである。神の民はヤコブの子孫であり、エサウの子孫は神の民ではない。神はヤコブを選ばれた。
  • 選びは神の自由に属する。「自由な選びによる神の計画」とある。神はある人を選び、ある人を選ばない。しかも選びの理由は、人間の内にはない。その人間がどうであるから、これを選び、あれを選ばないということではない。神は選びたいと思う者を選ぶのである。
  • このような選びをする神に不義があるのかとパウロは問う。神に不義があるという批判はどこから生まれるのか。
  • 誰を選ぶかは、神に自由に属するという。まず選ばれた者と選ばれなかった者がいる。選びの基準は、人間の中にあるのではなく、神の自由に属するという。神の自由、それは悪く言えば、神の気まぐれとも言える。神の気まぐれによって、ある人が選ばれ、ある人が選ばれないというのなら、その神は公平ではないとの批判が生まれる。選ばれる根拠は人間の側にはない。それなのにある人が選ばれ、ある人が選ばれないなら、不公平、えこひいきがあると考えることができる。
  • そこでパウロは、「神に不義があるのか」と問う。決してそうではないとパウロは語る。さらにパウロは、神は、「憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ神であると語る。神の民は、神の憐れみによって選ばれた民であるという。
  • さらには、神は「憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにする」という。この神の憐れみも、不公平に思える。どう考えたら良いのか。そして、このことはキリスト者にとって何を意味しているのか。
  • 神には不義はないと考える。自分が選ばれたとするなら、それは神の憐れみによるのであり、それを喜ぶなら、神の選びに応答して生きることが求められる。神の召しに応答して生きることは単純に得をしたとは言えない。なぜなら自分の好きに生きることは捨てるのだから。
  • 神に選ばれるとは、神の選びに応答して生きることを意味する。そのように生きるように召されたのである。自分の思い通りに生きるのではなく、神の召しに生きるのである。キリストを信じるようにすべての人が招かれている。この招きに応答するか否かは、個人の自由である。現実に選ばない人も多い。つまり自分の生きたいように生きること選び、神の召しに応えるという制約を受けることを好まないのである。この招きに応答する人は神に選ばれた人でもある。召しに応えるか否か、個人の自由である。召しに応える人は、神の憐れみにより選ばれた人でもある。
  • 洗礼を受けキリスト者になった人で、教会に来なくなった人がいる。信仰に生きていないように見える人がいる。この人たちは救われるのか。おそらく救われない。救いへの招きを受け、キリスト者になっても、キリスト者としての歩みをしていないなら、救われない。洗礼を受けたか否かという事実によって、人の救いが決まるのではない。救いへの招きを受けたのなら、その招きに応答することが大切である。その人は神への信仰に生きる人であり、最後の審判の時に救いへと導かれる。
  • 洗礼を受けただけの名前だけのキリスト者は、肉によるアブラハムの子孫であるが、神の民ではない人と似ている。信仰者となったのなら、神の選びに答える歩みをしたい。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>神は憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむお方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>神の選びに感謝し、選びに応答して生きること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、私は信仰に導かれました。感謝です。でも多くの人があなたのもとに来ないことも現実であり、また私が洗礼を授けた人の中にも教会に来なくなった人たちがいます。ウェストミンスタ信仰告白に有効召命という言葉があります。有効召命を受けた人は信仰を貫きますが、受けていない人はキリスト者になっても救いに入ることができないとされます。私にとって大切な人で、洗礼を受けたのに教会を離れた人たちもいます。信仰生活に戻るように祈っていますが、いつ信仰に復帰するかは分かりません。人間の心の複雑さを思います。
  • 今日は、改めて有効召命についてもう一度、ウェストミンスタ信仰告白の有効召命の項目を読み、その解説にも目を通したいと思います。
☆与えられた導き
  • 有効召命について確認する。

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有効召命について

  • 神が命に予定されたすべての人間を、そして彼らだけを、神は、自ら定めてよしとされる時に、神のみ言葉とみたまで、生まれながらに置かれていた罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへ、と有効に召命するのをよしとされる。しかも、彼らは神の恵みによって自発的にされて、最も自由に来るのである。

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