ルカ福音書 18章9~14節

2018年12月11日

(内容)

  • イエス様は、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、警告の意味でのたとえを語られました。

(黙想)

  • ファリサイ派の人は、自分が罪を犯す人々のような者でないことを神に感謝し、週に二度断食をし、全収入の十分の一を献げています、と神に祈った。
  • 自分が罪を犯すような人々ではないことを神に感謝する態度、それは罪を犯す人々を軽蔑する態度であり、高慢な態度である。人はしばしばこのようにして自分自身を誇る。ここに彼の問題がある。神の戒めは究極的には、神を愛し、隣人を愛することであるから、彼は神の戒めを守っていないことになる。彼は実際には罪を犯しつつ、そのことに気がつかず、自分は神の戒めを守っている正しい人間だと思い込んでいる。
  • 徴税人は、「罪人の私を憐れんでください」と神に祈った。彼は自分が罪人であるとの認識を持っている。どのような罪認識を持っているのかは明らかではない。自分は哀れな罪人であり、神に憐れみを乞うことしかできないことを知っている。自分を哀れでみじめな人間だと思っているこの徴税人が神に義とされたとイエス様は語る。自分が罪人であると告白する人を神は憐れんでくださる。義としてくださる。なぜか。自分の罪を本当に知る人は悔い改めて、その歩みを変えるからであると思う。「打ち砕かれ、悔いる心を神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)。打ち砕かれて悔いるこことは、罪にとどまろうとはしない。罪から抜け出ようとする。だから「神よ、わたしのうちに清い心を創造し」と祈る(詩編51:12)。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御父)14節。神は罪を悔い、憐れみを求める人を義とする方である。
☆神さまが私たちに求める生き方
  • (警告)9、14節。自分の義を誇ることは間違いである。律法の実行によっては私たちは義とされない。私たちの行いは決して完璧ではない。
  • (教え)13節。自分の罪を真に悔いる人は、同じ罪を繰り返したいとは決して思わない。しかし、自分は罪に対して無力な哀れな罪人であり、みじめな人間であることを知る人は、清い心を神に求める。ここに神が罪人を義とする理由があるのではないか。
  • (教え)口先だけの悔い改めは、同じ罪を繰り返しても平然としている。洗礼者ヨハネは、悔い改めの実を結べと説教したが、その通りであると思う。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神様、今日は真の悔い改めとは何かを思いめぐらすことができ感謝します。徴税人のように、「罪人の私を憐れんでください」との祈りは、私を罪から救ってくださいとの祈りであると思います。罪をどうしても犯してしまう哀れでみじめな自分を知り、救われたいのです。ただ罪を赦されるだけではなく、罪に留まることなく、あなたの御心を行う人になりたいのです。だから、神さまは悔い改める罪人を義としてくださるのだと信じます。
  • 礼拝において、あなたに祈りを捧げる人の祈りを聞いていて、特に罪の告白の祈りを聞いていて、私には思うことがあります。そこには真剣な悔い改めがないと。口先だけ罪を告白し、神さまの赦しを受けることができて感謝ですとの祈りがなされます。同時に思います。聖霊の導きがなければ、人は真に自分の罪を知ることはないのだと。
  • わたし自身、自分の罪を思い知らされて受洗を決心し、また牧師へと導かれましたが、小さな罪を犯したとき、自分は頭のてっぺんから足の先まで罪人であることを知らされました。そんな私がいつの間にか、正しく生きているような錯覚に陥っていました。そのことに気づいたのは、罪とは、あなたのみ心を大切にしないこと、あなたのみ心に向き合わないことと知ったからです。自分の心が自分しか見ていないことを知ったからです。その時、私は、清い心を欲しました。あなたが与えてくださる清い心です。私にとって清い心とは、聖書の言葉によって生きる心です。この心が清い心だと私は信じています。
  • 今ブログに罪の告白の祈りについての文章を書いていますが、今日は、真の悔い改めが必要だという示唆を与えらえました。この示唆に基づき、ブログを書くことにします。導きを与えられ感謝します。
    これからもディボーションを続け、清い心をあなたがからいただくことができるように導いてください。
☆与えられた導き
  • ブログに文章を書く
  • 明日もディボーションをする。

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