2025年11月14日
(内容)
- 人々の前でイエスの仲間であると告白するか否か、それは終わりの日、イエスが私のことをイエスを信じる者と認めるか否か、につながる。
(黙想)
- 8~9節。「イエスの仲間」とある。口語訳では「イエスを受け入れる者」、新改訳では、「イエスを認める者」と訳されている。要するに人々の前で、イエスを主であると告白する者、イエスをメシアと認める者の意味である。
- 迫害の状況下では、イエスを信じるかどうか、問われる場面がある。信じると告白すれば捕らえられ、場合によっては命を奪われるかもしれない。そのような状況下でイエスに対する信仰を告白することは簡単なことではない。
- 迫害もなく信仰者として生きるとき、何の危険もないとき、その時も、いかに生きているかは問われている。イエスを信じる者としての生き方を貫いているか、いい加減になっているのか、問われている。それは終わりの日に明らかにされる。
- この段落は、前段落の<誰を恐れて生きるのか>と密接に関係している。また12章の2~3節の隠れているもので知られずに済むものはない、とも関係している。私たちがイエスを信じて生きているか否かは、自ずと明らかになる。見る人が見れば、私たちの生き方がどうなっているのかはわかる。そして終わりの日にイエスによって明らかにされる。
- 11節は、イエスへの信仰を貫くゆえに捕らえられた場合のことを想定している。捕らえられての取り調べの時、あるいは裁判になったとしても、聖霊が語るべきことを教えてくださるとある。だから何を言おうか心配する必要はない。
- 10節をどう理解するのか。聖霊を冒とくすることは赦されないことを強調するために、イエスの悪口は皆赦されると言っているのではないか。聖霊の導きを信じて、イエスへの信仰を貫くことが教えられる。
- 我々は、迫害の中に生きているわけではない。自分の信仰の姿勢が人々の前で問われることはない。いい加減な信仰に生きていても、自分の身に危険が及ぶわけではない。しかし終わりの日にはその信仰が明らかにされる。
- 天使の前でイエスが私に向かって、「あなたが信仰に生きたことを私は知っている」と言ってくださる時を待ち望むことも大切である。待ち望むからこそ、信仰を貫くことができる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>終末の時、私たちがイエスの仲間であったか否か、イエスは天使の前で明らかにする。
- <聖霊>信仰者が自分の立場を弁明する時、聖霊が語るべき言葉を教えてくれる。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>イエスの仲間として生きること。
- <勧め>聖霊の働きを信じること
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日もディボーションをすることができ感謝します。
- 私はブログを書き、信仰の証しを書いています。福音を宣べ伝える試みをしています。信仰者として、信仰に生きています。
- それと同時に、信仰者としての私にキリスト教信仰は幻想に過ぎないと信仰動揺させるサタンの攻撃があります。宗教というのは人間が造りだしたものであると昔読んだある哲学者が語ったのが記憶の片隅に残っています。私はキリスト教は宗教ではなく、真理であると信じます。聖書が告げる真理は人間が造り出したものとは到底思えません。このことは私の信仰を強めてくれます。それでも、真理と信じるのは幻想だとサタンは攻撃してきます。この攻撃をどう撃退したら良いのか思案します。
- 今日は、新たな視点を大切にしたいと思いました。それは「待ち望む」ということです。イエスによって認められる時を待ち望むことです。待ち望む思いが強ければ、サタンがもたらす疑いに勝利できると思います。聖霊の助けを得ながら、終わりの日を待ち望む信仰に生きることができるよう導いてください。
- 「待ち望む」という視点を最近ヘンリ・ナウエンから学びました。彼が待ち望むことについてどんなことを書いているのか、読んだ本から抜き書きしてみたいと思います。イエス・キリストの御名により祈ります。
☆与えられた導き
- 『静まりから生まれるもの』の第3章から「待ち望むことについて」抜き書きする。