2019年6月25日
(内容)
- イエスはサマリアの町に来られた。ヤコブの井戸のそばに座っておられると水を汲みに来た女性がいた。イエスはその女性に、私は生きた水を与えること、それを飲む者は決して渇かないことを告げられた。
(黙想)
- 「生きた水」について。旧約のエレミヤ書から。
「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを」(2:13)。
「イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ」(17:13)。
- ゼカリヤ書から
「その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける」(14:8)。
- ヨハネ7:37~38から
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。
- ヨハネ黙示録21:6
また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」。
- ヨハネ7:39でイエスが与える「生きた水」は聖霊であると説明されている。エレミヤ書では、生ける水の源は神である。黙示録には、「命の水から価なしに飲む」とある。これは神の臨在の中に置かれた充足感を言い表しているように思う。
- サマリアの女性は、「生きた水」が何を意味しているのかは理解できないでいる。イエスに聞けばいいのにと思うが、彼女は勘違いしたままで、ここに水汲みに来ないですむように、その水をくださいとイエスに頼んでいる。
- 信仰者を導き生かすのは聖霊である。パウロはガラテヤ書で聖霊の導きに従いなさい、そうすれば肉の欲を満たすことがないと語っている。私たちは聖霊の導きに生きることを真剣に考えたい。肉の欲に勝利することに飢え渇くことこそキリスト者である。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)イエスは「生ける水」を私たちに与えてくださる方である。イエスは聖霊を私たちに送ってくださる方である(ヨハネ15:26)。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)生ける水を飲む者は、決して渇かない。
- イエスは語られた。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」。
- イエスの言葉は、霊であり、命である。イエスの言葉によって生き続ける、それが決して渇かないということだと思う。イエスを信じない者は肉の欲望によって生きる。それは決して満足、充足を与えない。
- (勧め)生ける水を求めること。イエスの言葉、神の言葉によって生きること。神の言葉によって生きようとすることは、聖霊の導きである。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私は主イエスを信じ、渇きを癒やされました。主イエスの言葉、神の言葉によって生きることを知り、神の言葉によって生きることを始めたからです。神の言葉によって生きることこそ、まことの人間の歩みであることを教えられ、心は充足しました。生きていくとき、牧師として働いていたとき、いろいろな問題があり、悩みはありましたが、御言葉によって歩めば良いとの思いは、私に平安を与えてくれました。
- そして今、引退して思います。新たな渇きを覚えます。福音宣教がなかなか進まず、諸教会が教会員の高齢化の中で少しずつ弱体化している状況を見るにつれ、何とかならないか、何とかできないかとの思いがあります。ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに下り、弟子たちが大胆にキリストを証しし、福音宣教をしたように、教会が大胆に福音宣教できることを願います。それは神さまのお働き、導きによります。このような神さまのお働きに私は飢え渇いています。
- 天の父よ、主なる神よ、この国の伝道に対して、大いなる導きを与えてくださるように導いてください。あなたの大いなる介入を与えてくださり、教会の伝道が力強く進展するように導いてください。
- 今、私にできることは祈りです。このことを覚えて特に祈ります。
☆与えられた導き
- 神さまの介入により、この国の伝道が盛んとなるように祈る。