ヨハネ福音書 14章12~14節

2020年2月5日

(内容)

  • 「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とイエスは約束された。

(黙想)

  • これはすばらしい約束である。この約束を頼みとして、牧会上の課題を祈った。でも自分の願いがすべてかなえられたわけではない。「何でもかなえてあげよう」との約束に正直戸惑いを感じている。
  • この約束は、私たちの自己中心的な願いもかなえられることを意味してはいないと思う。宝くじが当たるようにとの願いは、ほとんどの場合かなえられないと思う。かなえられる祈りはイエスの御心にかなう必要があると思われる。しかしイエスの御心にかなうことが必要であると考える、何を祈っていいのか分からなくなってしまうかもしれない。この祈りは御心にかなうか否か、いちいち考えていたら、祈れなくなる。また基本的に御心にかなうかどうか、私たちには判断できない。
  • それなら自分なりに祈ればよいのではないか。でもそうしたらイエスの約束に何の意味があるのか。イエスはいったいどんな気持ちで弟子たちにこの約束をしたのだろうか。この約束を語る直前、イエスはご自分が父なる神と心をひとつにしていることを語られた。そして私を見た者は父を見たのであるとも語られた。そしてイエスを通して父なる神を知ることになると語られた。祈るとは、イエスの父なる神に祈ることである。私たちの祈りは、神社の境内で正体の分からない神に祈るのとは違う。
  • それで何を祈ったらよいのだろう。どんな祈りをしたらいいのだろうか。この場合大切なことは、何を祈るかではなく、私たちが父なる神の心と一つであるかどうかが大切なのだと思う。それにしても「何でもかなえてあげる」という約束の言葉は強烈である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御子>「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と約束される方
☆神が私たちに求める生き方
  • <約束>イエスの名によって願うことは、何でもかなえられる。イエスがかなえてくださる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書のイエスの約束、何でもかなえられると信じて祈ったことがあります。病人の癒やしは特に熱心に祈りました。残念ながらかなえられなかったこともありました。正直、イエス様のこの約束に戸惑いを覚えます。どう受けとめたらいいのでしょうか。教えてください。
  • 祈りはかなえられると信じて祈ればよいのでしょうか。それとも、自分の願いがイエス様の御心にかなうかどうか吟味しなければならないのでしょうか。でも私には、私の祈りがイエス様の御心にかなうかどうかの判断はできません。祈る時はかなうと信じて祈りますが。
  • でもイエス様はなぜ、約束をなさったのでしょうか。イエス様は父なる神さまと心をひとつにされていました。私も神さまと、イエス様と心を一つにするようにして祈ればよいということなのでしょうか。
  • 何でもかなえてあげる」という約束には、祈ることへの励ましがあります。でも「何でもかなえられる」と信じて祈ると、かなえられないこともあります。その時、私たちは落胆します。イエスの約束、言葉の意味は分かりますが禅問答のように思えます。「汝、祈りをどう考え祈るか」。
  • 私に分かることは、かなえられると信じてイエス様の御名によって祈ることです。それは祈りの基本だと思います。イエス様はここで祈りの基本を教えられたわけではないと思います。なぜ、何でもかなえてあげようとの約束なのでしょうか。

この箇所はここまで。

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