2020年6月3日
(内容)
- 古い人をその行いと共に脱ぎ捨て造り主の姿に倣う新しい人を身につけ、日々新たにされた歩むことが勧められる。
(黙想)
- キリスト者はキリストと共に死んだ(2:20)。それゆえ古い人をその行いと共に脱ぎ捨てることが勧められる(3:9)。洗礼によって人は死んだ。古い人は死んだ。それは神の働きである。だからそれを信じて、古い人とその行いを脱ぎ捨てる。洗礼によって人はキリストと共に復活をした。新しい人にされた。だから、造り主に倣う新しい人を身につけ、日々新たにされて生きる。
- 神のみ業として我々は死に復活した。そのことを信じ、それを前提として生きる。古い人としての行いを捨てる。新しい人として行動する。
- キリスト者がキリスト者として行動する動機がここにある。クリスチャンだから神の戒めを守らなければならない、のではない。神によって古い人が死んだから、古い人としての生き方、行動を捨てる。神によって新しい人とされたから、新しい人としての生き方、行動をして生きる。アイデンティティーに生きるとはそういうことである。神から新しいアイデンティティーを与えられたことを認め、そのアイデンティティーにふさわしく生きる、これがキリスト者の行動様式である。信仰によって生きるのである(ローマ1:17)。
- このようにして「真の知識に達する」(10節)という。「知恵と知識の宝はすべてキリストの内に隠れています」(2:3)。真の知識とは何だろうか。思い出す聖句がある。
ヨハネ 17:3
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。詩編 111:10
主を畏れることは知恵の初め。
- 神を知る知識。これが真の知識。これによって生きる、それが真の知恵。
- なぜ、「真の知識に達する」というようなことをパウロは語るのか。知識ということを語る人たちがいたのか。初代キリスト教会はグノーシス主義者に惑わされたことがあると言われている。グノーシスとはギリシャ語で「知識」のこと。知識は大事だが、知識があればそれでよいというものではない。私たちの信仰が知識偏重になっている危険はある。「知る」ことが大事となり、聖書をよく学ぶ。しかし「生きる」こと、聖書の言葉によって生きることはあまり重んじられない。知識偏重という弊害はいつの時代もあると思う。
- 洗礼において神が何をしてくださったのかを信じ、それに基づいて生きることが大事。パウロは具体的に古い人としての行動を列挙し、やめるように語る。
- 「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(11節)。どう受けとめたらいいのか。抽象的でどう受けとめていいのかわからない。クリスチャンにとっても、キリストがすべてであるよりも、わたしがすべて、わたしの生活がすべてであり、神のために、キリストのために、ということは余計なことになりかねない。「キリストがすべてである」との告白は、真理であるが、簡単にはこの告白はできない。クリスチャンの生活は、しかし「キリストがすべて」を目指すのだと思う。
- そのとっかかりとして、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につける歩みがあるのだろう。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御父>貪欲は偶像礼拝であり、神の怒りがくだる。
☆神が求める私たちの生き方
- <勧め>古い人をその行いと共に脱ぎ捨てること
- <勧め>新しい人を身につけ、日々新たにされること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日もディボーションをすることができ感謝です。古い人をその行いと共に脱ぎ捨てなさい。受けとめました。そして新しい人を身につけること。私の場合は、古い人を脱ぐとは、自分の理性を神の賜物として受けとめ、賜物の地位においておくことです。今までは、わたしの理性を最も信頼すべきものとし理性を偶像視してきました。これは古い人の生き方です。このことは先日悔い改めました。この悔い改めを今一度新たにして、神さまを畏れ敬う理性として、用いていきたいと思います。聖書を読む時、御言葉を真理として読んでいきます。
- またあらためて神とキリストを知ることこそが真の知識であることを受けとめました。大切なことは知識をため込むことではなく、知識として学んだことをもとに生きることの大切さを教えられました。キリスト者のアイデンティティーを知り、これに生きることの大切さを教えられました。キリスト者の行動の源泉がアイデンティティーにあることを学べたことは収穫でした。このことはまたブログにも書いていきたいと思います。
☆与えられた導き
- 自分の理性を賜物として用いることの確認。理性を偶像視せず、聖書が語り理性が信じがたいことも受け入れることできるようにさらに理性を働かせ、謙遜に聖書の語ることを真理と受けとめる努力をする。
- アイデンティティーこそ信仰者の行動の動機であることを思いめぐらしてブログに書く。