第一コリント 14章3~19節 教会を造り上げる

2021年2月16日

(内容)

  • 異言の賜物を与えられ、異言を語ることはよい。しかし異言は自分を造り上げるだけで、教会を造り上げることはできない。霊の賜物を求めるなら、教会を造り上げることを大切にしなければならない。

(黙想)

  • コリント教会では霊の賜物、特に異言を語る賜物を持つ人たちが、この賜物のゆえに高ぶっていたらしい。それは当然、教会の中に不和、争い、分裂をもたらすことになる。それよりも預言の賜物を熱心に求め、教会を造り上げることに努力すべきことをパウロは語る。「教会を造り上げる」という言葉が3回も用いられている。
  • パウロは教会を造り上げることを語る。教会を造り上げることに関心を持つのは、信仰に成熟した人ではないか(2:6)。霊の人である(3:1)。成熟していない人は、自分にしか関心を持たない。異言の賜物を得て異言を語ることができることを誇りに思い、この賜物のない人を軽んじたりする。自分にしか関心がないことは明らかである。このような人がコリント教会に少なくなかった。
  • 教会を造り上げることに関心を持つ成熟した信仰者になることを目指すことは大切である。そのような信仰者を育成することはもっと大切である。今日の課題でもある。
  • 預言の賜物は、教会を造り上げることに役立つ。今日、この預言の賜物をどう考えるのか。いきなり預言の賜物を求めるのはどうかと思う。その前に聖霊に導かれて理性でもって教会を造り上げる言葉を語ることができる。この模範はコロサイ書に書かれている。

コロサイ 3:16~17
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

  • 信仰者の交わりの中で、互いに教え合い、諭し合うことができる。互いにキリスト者としての自分を造り上げるのである。それは教会を造り上げることにつながる。

エフェソ 4:29
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

  • 私たちが通常語る言葉で互いを造り上げることができるようになる時、預言の賜物を求めてもよいと思う。求めるなら、預言の賜物を求める理由をはっきりさせる必要はあると思う。理性の言葉でも教会を造り上げることはできるのだから。しかし理性の言葉で教会を造り上げることは困難を伴う課題であると経験的に思う。
  • また礼拝の説教は教会を造り上げる上で重要な役割を果たす。説教者の個人的な努力と説教者のために祈りは大切となる。上に書いたコロサイ書の教えにある信仰者の交わりの中に説教者が入れば、他の信仰者が何を考えているのか分かる。このことは説教者にとって役に立つ。コロサイ書に書かれているような信仰者の交わりを盛んにすることは緊急の課題であると感じる。
  • 異言の賜物は否定されるべきではない。異言の賜物を得て異言を語るにしても何を語っているのか分からないので、教会を造り上げることにはなかなかつながらない。異言を説き明かす賜物を持つ人がいれば、語られた異言の意味を伝えることができる。しかし異言を説き明かす賜物を持つ人がいなければ、教会を造り上げるという点では、異言は役に立たない。
  • 異言を語る人は異言により自分を造り上げることになるという(4節)。これは大切なことだと思う。しかし異言がどのように人を造り上げるのか、僕は分からない。異言により自分を造り上げることを求めるよりは、聖書の言葉に親しみ、御言葉を行い、自分を造り上げる方がよいと僕は思う。神さまは私たちに理性を与えておられることは大切なことだと思う。
  • パウロは異言を語ることを否定していない。僕も異言の賜物を否定しない。しかし優先順位をわきまえることは大切であると思う。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (聖霊)聖霊の賜物を与えてくださる方
☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>賜物を与えられたことを誇らない。
  • <教え>賜物は教会を造り上げるために与えられている。
  • <勧め>教会を造り上げることに心を注ぐこと

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、私は聖霊の働きには関心があります。聖霊の働きなしに教会を造り上げることはできません。かつて聖霊の導きを切に祈り求めていた牧師が、聖霊のバプテスマを受け、異言を語るようになりました。そして聖書の説き明かしも深くなり人が多く集うようになりました。また教会員にも異言を語る人が多くなりました。その牧師が晩年に、教会は造り上げられなかったと述懐しました。互いに愛し合う教会は造り上げられなかったというのです。無念に思われたことと思います。
  • 賜物に目を奪われ、教会を造り上げるという視点を忘れると残念な結果をもたらします。だからといって聖霊の賜物を否定する必要はないと思います。その賜物を教会を造り上げるために用いればよいと思います。私たちは聖霊の導きは熱心に求めるべきですし、聖霊の導きのもとで聖書を読むことは大切だと信じています。
  • しかし天の父なる神さま、教会を造り上げることは簡単ではありません。信仰者を増やすことに成功している教会はあります。しかし成熟した信仰者が集う教会を造り上げることは簡単ではないことを思います。
  • 天の父なる神さま、私は教会に仕える牧師の働きからは退きました。すると今まで見えなかったものが見えてくるように思います。私たちの教会はまだまだ未熟なのだと思います。旧約のイスラエルの民にしても理想的な神の民ではありませんでした。それどころか、あなたを捨て偶像礼拝に走る民であり、あなたが預言者を遣わしても耳を傾けない民でした。あなたはキリストを世に遣わし、救いのみわざをなさいました。罪の赦しの恵み、罪からの解放の恵み、聖化の恵み、キリストを証しする恵み、キリストの体をつくる恵み、豊かな恵みが与えられています。これらの恵みを十分受け取ることができていない現実があるように思います。
  • 教会の歩みもまた、不十分な歩みでしかないのでしょうか。それは残念に思います。初代教会のように聖霊の働きが活発な教会に戻りたい思いがあります。
  • 今日の聖書で、教会を造り上げることの大切さを教えられました。多くのキリスト者は自分の生活に手一杯で、教会を造り上げることに身を献げることはむずかしい状況があります。ひとつには時間的にむずかしく、さらに信仰が成熟していないので、身を献げることができません。
  • 現実の働きから引退した老牧師に何ができるのでしょうか。私にできる働きはささやかなものですが、ささやかな働きをしたいと思います。今年のテーマは「教会」と考えています。教会について黙想を深め、ブログを通して発信していきたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
  • 教会について黙想を深め発信していく。今年の課題。祈りをもって取り組む。

 

 

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