2021年8月26日
(内容)
- パウロはだれをも肉に従って知ることはしないと語る。
(黙想)
- 「それで」とあり、前節を受けての言葉である。前節ではキリストはすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人がもはや自分のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きることなのです、とある。
- イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストのために生きる者とされたとパウロは語る。キリスト者とはキリストのために生きる人を言う。現実には、すべてのキリスト者がキリストのために生きているとは限らない。キリストのために生きるところまで成長していないと言うべきか。真にキリストに出会っているとはいえないと言うべきか。
- パウロは、キリスト者は自分のために死んで復活してくださった方のために生きる者と考えている。実際パウロ自身はそうである。自分のために生きる者からキリストのために生きる者への転換は神の導きである。このような転換は、人が自分で生き方を変えることでできることではないだろう。
- もし神の導きによって生き方が変えられたのなら、パウロの言葉に従いたい。16節でパウロは、今後は誰をも肉に従って知ろうとはしないと語る。「肉に従って」とは、生まれながらの人がするように、との意味である。つまり上辺で人を見る、見えるところに従って人を見ることである。これは誰の心にもある。そしてキリスト者といえども見えるところに従って他人を裁くことがある。
サムエル記上 16:7
主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
- 「肉に従って知る」ことをしないなら、どのようにして人を知ろうとするのか。それについてはパウロは語っていない。まずは、上辺で判断するのをやめることである。そしたらどうなるのか。他者を見て、自分は何を思うのか、自分を観察してみよう。
- 「肉に従って」知ることをしない努力をしてきた。それは上辺で人を見るわけで、その人を知ることにはならない。ある人が特定の行動をするには、それなりの理由がある。その理由をにわかには知ることはできないが、それなりの理由があると知れば、上辺だけの判断はしないですむ。その人についての判断は留保することになる。その人についてさらに知りたければ、具体的に知る努力をすればよい。
- パウロは、キリストについて肉に従って知ろうとはしないという。どのようにキリストを知るかと言えば、死んで復活されたキリストとの霊的な交わりを通して知ることになる。パウロはそうしてキリストを知った。その結果、キリストのために生きるのがパウロの歩みとなった。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>肉に従って人を知ることをしない。上辺で人を判断することをやめる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、肉に従って人を知るようなことをしないとパウロは語りました。私はその努力をしてきました。上辺で人を判断するのはこの世の人であり、キリスト者もその傾向を持ちます。人はそれぞれ重荷を負っているので、上辺で判断してはいけない、そう思ってきました。
- 上辺で人を判断するのではなく、その人の内面をきちんと知る努力が大切なのだと思いました。それが本当に他者を知ることにつながります。
- 牧師の働きを隠退して住む場所を変え、そしてコロナ禍、人と接する機会はとても少なくなりました。人と接する場が少なくなりましたが、全くなくなったわけではありません。今の現実は、妻との生活だけですので、妻の言葉に自分がどう反応するのか、気をつけてみたいと思います。
☆与えられた導き
- 妻の言葉に対する自分の反応を観察する。
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妻との会話では、特に気づいたことはなかった。
お互いのありのままに語り、お互いを受け入れあって生きていることを確認した。