2021年11月11日
(内容)
- パウロはコリント教会の人たちに上辺のことだけを見ていると批判している。これは痛烈な批判でもある。
(黙想)
- コリント教会に偽使徒(11:13)が来て、パウロを批判した。コリント教会の人たちはそれに惑わされた。彼らの批判の一つは手紙で語るパウロと実際にあって話すときのパウロの印象の違いである。「離れていると強硬な態度に出る」(1節)、「手紙は重々しく力強い」(10節)、「面と向かっては弱腰」(1節)「実際に会ってみると弱々しい人」(10節)。こういう批判がパウロに向けられている。
- これに対してパウロは、上辺だけを見ているとコリント教会の人たちを指摘する(7節)。手紙の印象と会った印象の違いがあるにしても、現実的には同じ人であり、パウロは自分を使い分けているわけではない。手紙は熟慮しながら書くが、会って話す場合は、熟慮した内容を話すとは限らない。この外見批判はパウロが何を語っているのかを真剣には考えていない。
- 偽使徒たちはパウロのことを肉に従っていると批判しているが、文字通り肉に従っていると批判したわけではなく、これはパウロの表現である。彼らも上辺でパウロを判断して批判したのであろう。
- パウロはコリント教会の人たちに上辺のことだけを見て判断しないようにと勧めている。
- 8節でパウロは神が与えてくださった権威を誇っても恥にはならないでしょうと語る。どういうことか。パウロは「あなたがたを造り上げる」と語る。パウロがキリストを伝えるのは、信じた者を「造り上げる」ためである。これは大切なことである。
- 現代の説教者は福音を語るが、信仰者を造り上げるという意識はあるのだろうか。自分はキリストを伝えている、それで満足していないか。たとえばロマ書の3~8章は本当にキリスト者を造り上げるための内容になっており、福音の深みを語っている。パウロには信仰者を「造り上げる」という意識があり、内心、神から与えられた務めを誇りに思っていたのだろう。
- パウロの批判者たちも上辺を見てパウロを批判した。そして多くの人が上辺だけを見て他者を批判する。そして自分を一角の人物だと思う。自分も他者を批判するとき、上辺だけを見ていないかどうか、自己批判しなければならない。上辺で人を見てはならない。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>上辺でものを見て判断をしない。特に上辺で人を見て批判してはならない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。パウロは偽使徒たちから、そしてその影響を受けたコリント教会から、批判の目で見られました。そしてコリント教会との関係が悪くなりました。パウロは自分が受けている批判が正当なものではなく、上辺だけをみての批判であると受けとめています。
- 私自身も上辺だけ見て色目で見られたこともありました。私は相手のことをきちんと知るまでは、相手を批判することはできないと受けとめてきました。人を批判し、自分を正しい位置に置き、自分を誇る、どの時代にも起きていることなのですね。
- 今、奈良に住み、奈良にある教会の礼拝に出席し、祈祷会に参加し、信仰者との出会いを与えられています。一人一人がそれぞれの人生を歩んできました。どんな人生を歩んでこられたのか、私には分かりませんから、この人たちの信仰を批判することはできませんし、また批判しようとも思いません。共に励まし合って信仰生活を送ることができればと思います。
- 昨日の祈祷会で証しをなさった信徒のAさんのことを少し知ることができました。それで今日はYさんのことを覚えて祈りたいと思いました。
☆与えられた導き
- Aさんのことを覚えて祈る