2022年5月11日
(内容)
- パウロが使徒とされた目的は、すべての異邦人を信仰による従順へ導くためである。信仰による従順とは、イエス・キリストのものとなることでもあり、聖なる者とされることでもある。
(黙想)
- パウロが使徒としてキリストを宣べ伝えるのは、異邦人を信仰による従順へ導くためであった。「信仰による従順」とは何か。従順は従うこと。神に従い、あるいはキリストに従うことである。「信仰による」はどのような意味か。信仰者として従順に生きるということか。それともこの従順がどこから生まれるのかを指し示しているのか。
- もし「信仰者として従順に生きること」だとする。信仰者は神に従順に生きる者ですと教えられれば、信仰を持つ人は従順に生きる努力をするだろう。その従順は人間の努力、言い換えると人間の力に基づく従順となる。
- もし従順が信仰による、あるいは信仰に基づくとするなら、それはどういうことか。人間の努力、人間の力による従順ではなく、信仰が生み出す従順、信仰に基づく従順である。
- 旧約聖書を読むなら、人間の努力による神への従順は無理であることが分かる。神から従順に歩むようにいくら教えられてもイスラエルの民は従順になれなかった。罪があるからである。だから彼らは罪に対する神の裁きを受け、国家は滅亡した。そして預言者は救い主の到来を語った。その救い主はイスラエルという国家を再興する救い主ではなく、信じる者たちを神に対する従順へ導くためであった。
- この従順は信仰が生み出すものと考えるのがよい。言い換えると恵みとして与えられるものと言い換えることができる。
- しかし従順を自分の努力によるものと考える人が少なくない。自分の努力不足のゆえに従順になれない、つまり自分は罪を犯していると告白する祈りを礼拝で聞く。結局、信仰が従順を生み出すということが理解されていない。これは証しとしてしか語ることができないものなのだ。信仰による従順は、教えるものではなく、伝えるものなのだ。
- このローマの信徒への手紙を読み進める中で、信仰に基づく従順について聞き取ることが大切となる。パウロ自身も信仰による従順に生きる者となり、どのようにして信仰から従順が生まれるかを語っている。
- 私たちは自分の力、自分の努力では神に対して従順になることができないことは明確にしておこう。ある程度は従順になれても、完璧ではない。ある程度の従順で満足して、自分は従順であると思い上がってはいけない。逆に自分はダメだなどと卑屈になってもいけない。それは高慢の裏返しだ。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>異邦人を信仰による従順へ導くためにパウロを使徒に召された方
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>神に対する従順は、信仰から来る従順である。信仰に基づく従順である。
- <教え>神に対する従順は、自分の力では無理である。自分の力で従順になろうとして努力するものではない。
- <教え>努力は、信仰を働かせ、信仰による従順を目指すことが大切である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あなたへの従順は自分の力で努力して得られるものではないことを教えられます。あなたへの従順は、信仰から来る従順、信仰に基づく従順であることを教えられます。その従順がどのようにして得られるのか、パウロはこれから書いていきます。期待してこの手紙を読んでいきます。
- 私の残された生涯でロマ書をじっくり読み味わう機会は今しかないと思います。このロマ書のディボーションをあなたの導きによってすることができるように切に祈ります。日々の祈りの中で導きを祈ることとします。信仰による従順とはどういうものかを知ることができるように導いてください。
☆与えられた導き
- 日々の祈りの中で、ロマ書のディボーションの導きを祈る。
- 信仰による従順が何か、ロマ書から学ぶことができるように祈る。