2023年3月3日
(内容)
- 主の慈しみに生きる人の死は主の目に価(あたい)高い。
(黙想)
- とてもすてきな聖句である。
- 文脈としては、詩人は死の瀬戸際に追い込まれる苦難を経験した。しかし助けを求めて主に祈り、主は彼を助けてくださった。詩人は神の救いを経験した。
- それなのに、主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高(あたいたか)いとはどういうことか。主に信頼する者の命が尊いから、神は助けるというのなら理解できる。
- しかし死が価高いことと、死に瀕する危機から救われることとどう関係するのか。ある詩編注解者は、「ヤハウェの目に惜しまれるのは、かれに信実な者たちが死ぬこと」と訳している。死ぬことを惜しむから、ヤハウェ(主なる神)は信実な者を助けるということか。
- 歴史を顧みれば、殉教で死んだキリスト者がいるし、キリスト者は死の危険からいつも救われるとは限らない。殉教の死は無駄死にではなく、神の目に価値ある死である。
- 一般に人は自分の死に直面するとどのように死を受け入れるかを模索する。死を受け入れることができる理由を探す。精神的に死に打ち勝つことを考える。たとい死ぬことになろうと、自分の生を意義あるものにし、死に勝利することを考える。先日読んだ『死を見つめる心』(岸本英夫)には、いくつかの死生観が紹介されている。若い時、僕は、そのためなら死んでも命を惜しいとは思わないことを行えば死に勝利できると考えた。いずれにせよ、自分の死が価高いということはない。自分の死は仕方のないものとして受け入れざるをえない。
- しかし詩編116は違う。主の慈しみに生きる人の死は価高い。新約聖書を読むのなら、イエス・キリストの十字架の死は、私たちの救いにとって大切なものである。私たちに救いをもたらす死である。限りなく尊い死である。
- キリストに結ばれている者の死も尊いと言えるのではないか。神に生かされた人生が幕を閉じるのが死である。この世の生涯の最後ではあるが、神の国への出発でもある。死は仕方なく受け入れるものではなく、自分の生涯を神に感謝し、御国への旅立つ時として受け入れることができるのではないか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>神の目に神の慈しみに生きる人の死は価値がある。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>死は仕方なく受け入れるものではなく、感謝して受け入れることができるものである。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。以前から、15節の言葉は心に刻まれています。文脈から考えて理解しにくいところがあります。しかし今回は、この15節の言葉だけを取り上げて思いめぐらしました。
- 人は自分の死をどのように受け入れるか考えます。人それぞれの死生観があると思います。私は死を仕方のないものと受けとめるのではなく、死は価値のあるものとして積極的に受けとめたいと思いました。主イエスの十字架の死ははかり知ることができないほど尊いものです。私たちの生涯の最後を感謝をもって受けとめることができるなら、私たちの生涯は価値あるもの、意義あるものとして、生涯を終えることができるように思います。
- 「死を受け入れる」という題で、自分の死生観を文章に表してみたいと思います。以前、この15節をテーマにして説教したことがあるので、それを読んでみたいと思います。
☆与えられた導き
- 自分の死生観を書いてみる。
- 以前の説教を読む