2025年8月15日
(内容)
- イエスはご自分が遣わした弟子たちの働きを見て、悔い改めないコラジン、ベトサイダの町を不幸だと告げる。神の御業を見て、悔い改めて神に立ち帰ることが大切である。
(黙想)
- イエスはコラジンとベトサイダの町は不幸だと告げる。二つの町は、そこでなされた奇跡を見ても悔い改めなかったからである。ティルスやシドンの町は、同じ奇跡を見れば悔い改めるに違いない。裁きの時、ティルスやシドンの町は軽い罰で済む。またカファルナウムの町についても、陰府にまで落とされるのだと告げる。
- イエスは72人を派遣した。人々が彼らの語る言葉に耳を傾けるなら、それはイエスを受け入れることであり、拒む者はイエスを拒むことになる。イエスを拒む者はイエスを遣わした方、つまり神を拒むのである。
- ここでは悔い改めがテーマになっている。イエスによって派遣された者たちは、病人を癒やし、悪霊を追い出し、神の国が近づいていることを証しした。それゆえ、悔い改めて神に立ち帰ることが大切となる。
- イエスを受け入れる者は、イエスを遣わした方を受け入れるという表現は、9:48にある。
- 人間は直接神を見ることはできない。見ることができるのはしるしである。神がいるとのしるし、神が行われた出来事というしるし、を人は見ることができる。病人の癒やし、悪霊の追い出しはしるしである。しるしを見たら、悔い改めて神に立ち帰ることが求められる。悔い改めない町は不幸だ、とイエスは告げる。
- 72人が派遣されることを語る段落と、72人が帰ってきてイエスに結果を報告する段落の間にこの段落がある。ルカ福音書の読者に悔い改めの必要を語りかける段落である。
- 罪の赦しを与える悔い改め。これが大切である。洗礼者ヨハネもこの悔い改めを宣べ伝えた。またイエスも同じである。
ルカ 5:32
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。
- 悔い改めること、これは我々が最初になすべきことであり、これをして、信仰の歩みを始めることになる。神を崇める最初の行為は、悔い改めることかも知れない。神を崇めるとは、神との関係に生きることを志し、神に対してふさわしい態度を取ることである。
- 私たちには自分の知らない罪がある。気づいていない罪がある。気づかせてくださいと祈ることは大切である。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>私たちが悔い改めることを求める方
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>罪に気づき、悔い改めること
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- 今日は自分の内に悔い改めることがあるのではないかと思いめぐらすよう促されました。聖書を読み、信仰者として歩んでいると、これが自分の罪だと気づくことが少なくなります。最近目の手術が必要であると分かり、思い悩みました。何か問題が起きると、どう解決するのか、自分の力で対処しようとする傾向が自分にあります。それは間違っていないと思います。キリスト者として生きる責任がありますので、解決をあなたに丸投げするわけにはいきません。しかし、自分で対処しようとしてもうまくいかず思い悩みが残ります。
- 目の手術の問題は、不安もあり、結局、すべてをあなたにゆだねることにしました。すると平安が与えられ感謝でした。事に対処するにあたり、最善を尽くし、その上で、あなたにゆだねることの大切さを教えられ感謝です。
- なおまだ気づいていない罪があると思いまう。気づかせてくださるようお祈ります。
☆与えられた導き
- 自分の罪に気づかせてくださるよう祈る
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老いの中にあって、心配事が色々出てきて、思い悩むことが増えてきた。神にゆだねきれずに思い悩んでしまう。悔い改めなければ。