ルカ福音書 11章37~44節 自分を誇らない

2025年10月16日

(内容)

  • イエスはファリサイ派の人から食事に招かれた。食事の席に着いたが、身を清めなかったので、招いたファリサイ派の人は不審に思った。イエスは、外面を重んじるファリサイ派の態度を問題にした。

(黙想)

  • 38節。イエスは身を清めなかったとある。他の福音書では手を洗わなかったとある。身を清めるとは、どのような行為を指すのか。なぜ、手を洗うと書かなかったのか。
  • イエスは、自分を食事に招いたファリサイ派の人の心を察知して語り出した。イエスはどんな気持ちで話したのかと思う。ルカ15章では、イエスが罪人を迎えて食事をしていることに不平を言い出したファリサイ派や律法学者たちに3つのたとえを語っている。このときは冷静に、自分の思いを伝えようとしているように思える。
  • この箇所のイエスは、激しい気持ちを持っている。その場にいた律法学者は、イエスは自分ちたちを侮辱していると語っている。イエスは怒っているのか。
  • 39~41節でイエスはファリサイ派の人たちを問題にする。彼らは杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は、強欲と悪意に満ちている。人間には他者に見えない内側としての心があり、他者に見える外面というものがある。ファリサイ派の人は、外面を重んじ、内側を軽んじているとイエスの目に映る。
  • 41節はわかりにくい。「器の中にある物を人に施せ」。どういうことか。器とは何の器なのか。器の中にある物とは何か。これを施せば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。内側の強欲や悪意が清められるというのか。41節は、わかりにくい。
  • 外側よりも内側が大切であることがわからない人を愚かな者たちとイエスは呼ぶ。
  • 42節では、ファリサイ派の人たちは、あらゆる野菜などの十分の一を献げるが、正義の実行と神への愛をおろそかにしている。これこそ行うべきであると、とイエスは指摘する。ファリサイ派の人たちは十分の一献金をして、神の戒めを果たしているとアッピールしている。自分はよき信仰者であるとアッピールする。しかし正義の実行と神への愛をないがしろにし、神を敬うという点では足りないとイエスは指摘する。
  • 43節ではファリサイ派の人たちは、人からよく思われようと心を使っていることが指摘される。
  • 44節では、ファリサイ派の人たちは、人目につかない墓のようで、彼らの存在に人々は気づかないとイエスは指摘する。外面を重んじるファリサイ派の態度は、人々が気にとめないと皮肉っている。
     ファリサイ派の人たちは外面をよくすることを心がけている。そんな歩みは「不幸」だとイエスは繰り返し告げる。口語訳では、「不幸だ」を「災いだ」と訳している。要するに彼らの行動、彼らの存在は、神から裁かれるものであることをイエスは指摘する。
  • イエスからすれば、人の心が清くあること、正義を行い神を愛することが大切である。しかしファリサイ派の人たちは、外面だけを重んじており、内側が伴わない。イエスは別な箇所で彼らのことを偽善者と呼んでいる。偽善者は不幸、災いなのである。
  • 人はなぜ外面を重んじ、自分を立派な人間に見せ、人からよく思われたいと考えるのか。人からよく思われることに誇りを感じるのだ。人からの評価を求め、自分のプライドを満足させたいのである。ファリサイ派のように、神を信じる者でも、その傾向はあるし、プライドのために信仰を利用することもある。
  • イエスはそんな人を「不幸だ」「災いだ」と告げる。神に受け入れられない、神に裁かれることを告げる。さらに言えば、イエスは彼らに悔い改めを求めるのである。プライドを持つ者にとって、イエスの言葉は、自分を否定するように響く。イエスに対して敵意を抱くことになる(11:53)。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>人の心を造り、体を造られた。人の姿は他者には見えるが、心は見えない。
☆神が私たちに求める生きかた
  • <教え>心の清さが大切である。
  • <警告>自分を誇る誇り、プライドの根拠は何か。外面を重んじ、人の評価を求めていないか。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を黙想でき感謝です。
  • 主イエスは、ファリサイ派の人たちのことを不幸だと言いました。それは彼らを侮辱することであると律法学者は言いました。主イエスはどんな思いでファリサイ派の人たちに語ったのかと思います。主イエスは食事に招かれましたが、ファリサイ派、律法学者たちを批判する言葉を語ったあと、その家を出ています。
  • 主イエスは、食事に招かれ、食事の席に着いたとき、食事に招いたファリサイ派の人が主イエスが身を清めなかったことに不審の思いを抱いたことを知りました。そのことに目をつぶって食事をすることはしませんでした。見過ごすことができなかったのですね。
  • 人はプライドを持ち、自分に対する批判を簡単には受け入れられないことを思います。ファリサイ派の人たちは、神を信じ、神の律法を守っているという自信があり、誇りを持っています。批判の言葉を受け止め、悔い改めることは難しいように思います。大切なことは、あなたの前に私たちは生きており、もし悔い改めるべき点があれば悔い改めることが大切です。その意味で自分に対する批判は、慎重に受け止める必要があり、必要なら悔い改める必要があります。
  • 改めて私は何を誇りに生きているのかと考えさせられました。今日は、自分の心を探ってみることにします。聖霊の導きの中で、心を探ることができるよう、導いてください。
☆与えられた導き
  • 自分は何を誇りに生きているのかを探ること。

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  • 自分を誇ろうことはやめている。
  • 誇る者は主を誇れとあるので、主なる神を誇る。
  • あるいはキリストの十字架を誇る。
  • ある人が僕のことをひどく非難したことがある。もし自分を誇っていたら、腹が立ったことだろう。自分は神さまの前に生きているので、人がどう僕のことを非難、批判しても気にしない。

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